直喩研究の指針


 直喩は、形式的には「〜のように」や「〜のごとし」、英語ではlikeやas、ドイツ語ではwie やals 、フランス語ではcomme やtel などの語を使って、あるものを別のものに譬えるポピュラーな修辞法である。それは、ラテン語ではsimilitudo、英語ではsimile、フランス語ではcomparaison、ドイツ語ではVergleichと呼ばれる。また、邦訳語のレベルでも、明喩・明比・比擬法といった、明治の導入期に造られたバリエーションがある(1)。しかし、これらの別称については、それらが使われなくなって久しい。つまり、直喩という名称は、その種の修辞法の訳語としては固まっていると言うことができる。もちろん、冒頭の定義は不充分なもので、この技法の特性を理解するには、説明がいる。

 中村明は、1991年に出版された記念碑的な著作のなかで、名称数で236にのぼる修辞法を、操作面から配列・反復・付加・省略・間接・置換・多重・摩擦の8種の基本パターンに分けている(2)。その上で彼は、直喩を置換の項目に組み入れている。「《直喩法》は喩えるものと喩えられるものとを明確に区別して掲げるのが特徴であり、通常、『あたかも』『さながら』『まるで』あるいは『如し』『ようだ』『みたいだ』といった、その表現が比喩であることを説明することばがつく、とされる。」(3)中村の著作もまた、比喩標識の存在を通して直喩を説明しようとする。この定義は、おなじ早稲田学派の重鎮、五十嵐力のものとほぼ同じである。中村の著作は、明治期の日本語修辞学の集大成とされる五十嵐の『新文章講話』(早稲田大学出版会1909)の記述を、現代風にアレンジしたものである。五十嵐はこの本のなかで書いている。「直喩法とは顕はに二つの事物を比較するもの、即ち喩ふるものと喩へらるゝものとを別けて掲ぐる詞姿を云ふ。『たとへば』『恰も』『さながら』『如し』『似たり』『異ならず』等の説明詞の添ふのが普通の形式であるけれども、稀には添はぬこともある。[...]『月に村雲、花に風、盛運久しからず。』といふ類ひは後者の例である。」(4)実際には、この種の比喩標識は、日本語では、かなりバラエティーに富むものである。たとえば筆者が、漱石の文学作品から拾いあげることのできたものだけでも、これだけある。「ように、ような、ようなもの、ようで、ようだ、みたように、みたような、みたようで、ごとく、ごとくに、ごとき、ごとし、ほど、より、くらい、ぐらい、同じ、同然、似た、似て、類して、一般、的、一種の、まるで、めいた、感じ、そうな、ばかりに、らしく、ふうに、ところ、という」(5)

 グループμは、こうした比喩標識を一種の連結辞と考え、それに繋辞(copule)の名称を付与している。繋辞という小見出しのついた項目のなかで、彼らは、次のように書いている。「慣習的な直喩は『のような』によって示される。不在の隠喩は端的な代替である。この両極端の間にあって、作家は大きく扇状をなす諸々の中間的な文法構造を使用してきた。それらの文法構造は一般に、『のような』のもつ合理的な性質を弱めようとするものである。何故なら、『のような』は、相似が部分的な性格のものであることを強調し、それゆえに全面的な互換性を表現する障りとなるからである。[...]これらの用語は類似を持ち込む。類似とは弱い等価性以外の何物でもなく、稀薄な共通性しか持たない諸々の個体を一つにまとめ上げる。この種の繋辞(copule)のうちには〜のような、〜らしく見える、〜と同じ、〜と同様に、〜に似たがある。」(6) 繋辞は、一般に文の主語と補語(属詞)とをつなぐ語のことで、普通はbe(etre)動詞を指し、場合によっては、seem(sembler)などの動詞や、and(et)といった等位接続詞を指すこともある。したがってそれは、この論理学と言語学で使われる語を、修辞学に転化させて使ったものに他ならない。

 フォンタニエは、『文彩論』のなかで、直喩について次のように規定している。「直喩は、釣合ったものか不釣合か、似ているか違っているかの比較に基づいて、その観念を明確化し、補強し、それを引き立たせるために、あるものを他のものかそれ自体と比較するものである。釣合った比較であれば、直喩は相似直喩(similitude)と呼ばれ、不釣合な比較であれば、それは相違直喩(dissimilitude)と呼ばれる。しかし、我々が実際に比較を行うのは、後者の立場よりも、前者の立場で行うことが多いために、その結果、直喩の名はほとんど常に相似直喩の名と混同されてきた。」(7)こうして今では、dissimilitudeのタイプもsimilitudeのなかに含まれる。文学作品の直喩のなかで、もっとも印象的なのは、似ても似つかないが、類似を指摘されてなるほどと思う相違直喩(dissimilitude)の方であろう。たしかにそれは、なかなか見つからない。しかし、似たもの同士の比較でも、まだまだ一般の読者に気づかれない二者の関係は存在するのであって、それを発掘するのが、作家の想像力であり、霊感であり、腕であり、使命である。

 またフォンタニエは、比較の第二項の側からのオーソドックスな直喩の分類法を提示している。「直喩は、あるときは人間を動物に、動物を人間に譬え、あるときは精神的な物を肉体的な物か他の精神的な物に、肉体的な物を精神的な物か他の肉体的な物に譬え、あるときは自然界の物を人工物に、人工物を自然界の物に譬え、あるときは大きな物を小さな物に、小さな物を大きな物に譬える。こうしてそれは、譬えがどこから引かれているかによって、精神的、動物的、肉体的、歴史的、神話的直喩のように言われる。」(8)逆に、内外の文学作品から比喩を集めた、榛谷泰明の『比喩表現辞典』(白水社1988)では、操作性を考えて、比較の第一項の分野別のアイウエオ順になっている(9)。比喩を細かく分類するには、結局、内容別の分類しかないのか。かつてバルトは、「文から文彩の名へと向かわせてくれるような」方法を模索していた。彼は、そのためには、「主要な文彩の純粋に操作的な分類が欠けている」と言った。だが彼は、それは「多分、作ることができないのだ」とも言った(10)。今のところ、修辞法を身につけるには、修辞現象にこだわる諸作家の、できのよいレトリカルな表現に数多く触れるしかないのだ。

 直喩は、形式的には、文中で見分けのつきやすい技法であるが、それでも、見つけたものが本当に表現的な直喩であるのかどうかの判断はつきにくい。比喩の認識には、時代の変化や、知識の有無が、深く関係している。死んだ比喩が再生したり、当初は表現的であったものが、時代と共に陳腐な常套句になる。成句を文字通りにとることによって、また、文彩が舞い戻ったりする。あるいは、暗示引用、模擬、模作、パロディーといった、諺や、文学作品の章句を、少し改変して自作に登場させることによって、皮肉やユーモアの道具にする。ところが、元の漢語を知らなかったり、出典となっている本を読んでいなかったりで、修辞法に気づかずに素通りする。実際には、比喩の認識は困難なものとなっている。そんなわけで、直喩の本質について、もう少し考えてみる必要がある。


 グループμは、『一般修辞学』のなかで、提喩の観念をレトリカルな変換の中核に据えることによって、旧修辞学の遺産のとらえ直しを行っている。まず彼らは、各々の修辞法を、語形変換・構成変換・語義変換・論理変換の4種のタイプに分類した。次に、そのそれぞれについて、さらに、削除、付加、削除・付加、置換の 4つの操作に下位区分している。直喩については、それを基本的には語義変換のタイプに組み入れて分析を進めている。用例を日本的なものに変え、多少の補足をしながら、その論旨に即して直喩の解説をしよう(11)。第五例と第六例は、筆者の加えた分である。

 1彼女の頬はリンゴのように赤い  論理変換的  正常     表現性の小

 2彼女の頬はリンゴのようだ    隠喩的直喩  少し異常   表現性の中

 3彼女の頬のリンゴ        現前の隠喩  異常     表現性の大

 4彼女の顔にリンゴがふたつ    不在の隠喩  異常     表現性の大

 5彼女の頬はカシスのように赤い  語義変換的  異常     表現性の大

 6彼女の頬はリンゴのように青い  濫喩的隠喩  極めて異常  表現性の極大

 第一例は、表現としての異常性からみて正常で、語義のコードにも抵触しないので、『一般修辞学』では論理の変換だとみなされている。言外の文脈を考慮しない限り、そこには、文彩は感じられず、まったくの常套句である。もっとも筆者なら、異常性という病理学的なマイナス・イメージのものを使わずに、表現性という文体論的な概念を利用するところである。第二例では、「赤い」といった、比喩の第一項と第二項の双方に共通の属性がないので、表現としてやや意表を突くものとなる。隠喩に見えないこともないが、それは、やはり隠喩的な直喩である。後先が逆になるが、第四例は完全な隠喩で、唯一、比喩の第一項(頬)が文脈から消えており、意味論的にきわめて異常である。一般には、不在の隠喩と呼ばれている。第五例は、あまり、頬がカシスに例えられることはなかろうから、結構、表現的なものになる。われわれが、普通、文学作品のなかから取り出そうとするのは、この種の語義変換的な直喩である。第六例は、シュール・レアリスト的な表現で、本例が成立するかどうかは文脈次第であるが、似ても似つかない比喩だけに、成功すれば、印象効果満点のものになるだろう。このような比喩を濫喩(cachrese)ということがある。濫喩には、ふたつの意味があって、ひとつは、「風車の翼」というように、他に適当な語がない場合に、比喩表現を使うというもので、もうひとつは、比較の穏当性からみて、ふさわしくない、極端な比喩をいう。前者の意味では、誤用ということになるし、後者の意味では、きわめて表現的な比喩の可能性を秘めたものとなる。最後に残った第三例は、ボーダーライン・ケースである。繋辞が見あたらないから、安易に隠喩だと考えてしまうが、実は第四例と違って、比喩の第一項は備わっており、それがこの種の繋辞に近い働きをするので、直喩と考えることも可能である。それがいわゆる現前の隠喩である。

 実際、五十嵐力は、先の記述の最後で、繋辞をもたない直喩の可能性を指摘していた。中村明も、おなじ例を引用しながら、五十嵐の説明を敷衍するかたちで、その点に言及している。「ところが、修辞学書によっては、『月に叢雲、花に風、盛運久しからず』とか[...]いった例も、この直喩の中で説明される。その表現の中には『まるで』とか『ような』とかといった特定の言語形式はないが、それぞれ喩えるものと喩えられるものとを並列させてあることで、それが比喩表現であることが一見してわかる。そのため、広義の《直喩》にはこのへんまで含めることが多い。いずれにしろ、比喩であることが一見して明らかであるところに《直喩》の特性がある。」(12)

 フォンタニエは、直喩が成立する条件として次の三つを挙げている。1比較の正当性 2比喩表現の周知性 3比喩表現の新奇性 「第一に、直喩は、全ての任意の比較ではなく、その基盤として使われている比較において、正当で真実のものでなければならない。第二に、比喩として引かれているものは、これからよりよく知らせたいと思っているものよりも、人に知られたものである必要があるということだ。第三に、直喩は、何か真新しい、奇抜な、面白いものを想像力に提供するものでなければならない。したがって、低級で卑俗な、使い古されていて、陳腐でさえあるものなどは論外である。特に望ましいのは、その比較が意外で、心を打つと同時に、容易に感知できる自然な直喩である。」(13)

 五十嵐も、直喩法を使用する際の注意点として、叙述の順序こそ違うが、フォンタニエと同じような、三点を挙げていた(14)。一、斬新にして人の意表に出づべきこと。二、譬喩の穏当なるべきこと。三、容易に類似を見出だし得べきものなること。「第一、斬新なれとは、消極的にいへば陳腐なるを忌むといふことに帰する。陳腐なる比喩は比喩の効力を失ふ。瀑布、抱負、骨折る、泡食ふ、魂消る、一所懸命、臍を噛む、埒あかぬ、つまらない、等は皆己に使ひへらされて比喩の力の失せた語と云つてよい。光陰の速かなることに「矢の如し」といひ、人生の果敢なさを朝露に見立てた名譬喩も、今ではもう耳を傾けるものが無くなつた。かやうな類ひを称して凋んだ譬喩といふ。」(15)「第二、穏当なれとは、余りに大なる物に比すべからず、余りに小なる物に比すべからず、また余りに下卑た汚らしい物に比すべからずといふほどの意。小に過ぐれば見すぼらしくなつて引き立たず、大に過ぐれば滑稽に陥つて折角高まれる趣味を打ち壊す。演説会の拍手を水を注いだテンプラ鍋に譬へ、大軍の押し寄せたるを細螺の殻の渦まいたのに譬ふる如きは過少の弊あるもの」(16)ここで彼が言及しているのは次のような例についてであろう。《拍手の音がまるで大きな油鍋の中に水でも零したようにぱちぱちと起った。》(小杉天外、『初すがた』)(17)「第三、類似を見出だすに苦心する様ではならぬ。此の点から見て避くべきは、専門語を用ゐること、及び余りにかけ離れた譬喩を引くことである。腐敗した官吏を回虫に譬へて「彼等にサントニーネを与へよ。」といふ如きは前者の例である。術語を説明するに更に難解の術語を以てする例は仏教家の文に殊に多い。」(18)

 ここで注意すべきは、フォンタニエにあっては、比較の正当性が第一に挙げられて、五十嵐にあっては、表現の斬新さが一番目に来ている点である。これには意味があるのだろうか。多分、それは、両者による比喩のとらえかたの違いに起因している。あるいは、日欧の差といってもよい。つまり、前者では、修辞感覚の熟成に歴史もあって、比喩表現における新奇さなどは当然のものとして受けとめ、意表を突く表現も、比較の妥当性がなければ、ナンセンスなものとして退けられるからではないか。それに対して、西洋修辞学が導入されて間もない日本では、どうしても、目先の斬新さにとらわれてしまうということがある。その結果、比較の妥当性などは二の次になってしまうのである。したがって、肝心なのは、両者が第一に挙げていた条件をふたつとも満たすことである。つまり、比較が妥当で、なおかつ、表現が斬新なものを目指す必要があるということだ。

 その点、元々フランス語畑の人で、フォンタニエやデュ・マルセなどの古典修辞学の教科書をよく読んでいた佐藤信夫は、直喩のなかで比較の真実性が占める重要な役割に気づいていた。「まことの比較とは、常識の目で見て、もともと類似性があってもおかしくない同類のもののあいだに期待どおり類似性が見いだされる、そういう認識のことであろう。それに対して、いつわりの比較とは、もともと比較されるような類似性が期待されていないところに予想外の類似性を見い出す認識である。私たちの考えかたに引き寄せて言いかえれば、常識によってはじめから認められている類似性にもとづく比較表現はあくまで平常文であり、意外な類似性を提案する比較表現が直喩だということになる。すなわち、レトリックの直喩とは《発見的認識》である。」(19)佐藤の一連のレトリック物は、一見大衆向けの実用書のようなスタイルをとっているが、実はそこらの学術書以上に学問的な著作である。帯評に見られた「発売と同時に古典の仲間入り」」という井上ひさしの形容は、伊達ではない。こうして、モンテーニュの比喩の印象的な正確さが、的確に指摘される。「レトリック嫌いを自称していたモンテーニュの書いた文章のなかに、たとえば次のようなことばがある。《法王ボニファキオ八世は、狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだという。》(『エッセー』ー)十三世紀から十四世紀初頭にかけて西洋史をにぎわせたこの勇ましいローマ法王(教皇)の生涯を二行ほどに要約しようとすると大変だ。なにぶん派手な活躍をした人物だから、百科事典類もかなりの行数をさいているだろう。その生涯を、このたとえは簡潔に、生き生きと伝えている。科学的に正確というわけではないが、印象的にはきわめて正確だと言ってもいい。くどくど説明しなくても、くだんの法王の登場のしかた、全盛時代の勢い、そして世を去るころの姿が、何となくわかってくるからおもしろい。」(20) 1 狐のように 2 獅子のように 3 犬のように 一つ一つを見ればこれらは表現的な比喩ではない。しかし全体としては、対照法的な直喩の連続使用によって、それらは印象的なものになっている。もしそれらが独立した直喩で、要素の積み重ねがなかったら、果してこのような強固な文体効果をあげ得たであろうか。否である。佐藤も書いている。「二つのものの類似性は決して全面的ではない。あらゆる点で似ているということはほとんど同じだということに他ならず、またどんな点でも似ていないということはとりもなおさずまるで異なるということであろう。つまりXをそれに似ているYによって表現する記述法は、常に一面的であり不十分である。Xをなるべく妥当な形で認識しようという方策の一つとして、XをY1...Y2...Y3...Y4...Yn...と、多角的にたとえる工夫に思いいたる人がいても不思議ではない。」(21)こうして佐藤は、次のプレヴェールの詩の何行かに、珠玉の直喩を見ることになる。「《私たちの愛は今もそこにある 牝ろばのようにかたくなに 欲望のように生き生きと 記憶のように残酷に 後悔のように愚かしく 思い出のように優しく 大理石のように冷たく 日のように美しく 子どものようにかよわく それは私たちを見つめている》(ジャック・プレヴェール『その愛』)ご存知「枯葉」の歌詞の作者でもある詩人のこの何行かは、正確でかつ美しい。すなわち、レトリックの機能を、認識の造形、魅力、説得、というぎこちない三種類に分けてみても、すぐれた表現においてはそのすべてがあっさりと溶け合い一挙に実現してしまうという事実の、みごとな実例がここにある。」(22)


 実際の比喩表現を見ると、成功した比喩には、隠喩も含めて、その連続使用による相乗効果が利いていると判断せざるを得ないものが多い。さまざまな角度から、短い文脈で攻めて来るとき、比喩は読者にとってとっつきやすいものとなる。また、他の修辞法との併用も、その効果を決定的なものにするだろう。そこで、榛谷泰明の『比喩表現辞典』(白水社1988)のなかから、筆者が意外で表現的だと感じたものを挙げてみよう。《犬のように耐えてきた女が、突風で裏返ったこうもり傘のように、哀訴しはじめた。》(安部公房『砂の女』)ここでは、ふたつの直喩表現が、対置されることによって、犬とこうもり傘の取合わせの妙によって、印象的なものとなっている。《新生児が大勢籠に入って、焼きかけの今川焼みたいに並んでいる。看護婦が餡子でも入れるように次から次へと手際よく胸のガーゼを取り替えていた。》(阿刀田高『サン・ジェルマン伯爵考』)新生児を今川焼にたとえるのは、不敬な感じがしないでもないが、何ともユーモラスである。《結晶した悪は、白い錠剤のように美しい。》(三島由紀夫『天人五衰』)ここでは、すべてが意表を突くものになっている。「結晶した」は現前の隠喩であり、「悪は美しい」は逆説的であり、普通の人は「錠剤」を「美しい」とは思わない。《おれは涙を流したことだけでも恥辱感の泥を頭から尻まで鉛のようにつめこまれたような気がしていたのだ。》(大江健三郎『セヴンティーン』)「泥」は現前の隠喩であり、文全体が誇張法的である。《海には、鈍く、アルマイトの鍍金がかかり、沸かしたミルクの皮のように小じわをよせていた。食用蛙の卵のような雲に、おしつぶされ、太陽は、溺れるのをいやがってだだをこねているようだ。》(安部公房『砂の女』)「アルマイトの鍍金」は現前の隠喩であり、「ミルクの皮」と「食用蛙の卵」の奇抜な直喩の連続使用のあとに、「太陽」の擬人法的な直喩が続く。《白粉が肌を荒すやうに、嫉妬は感情を荒します》(川端康成『秋消える海の戀』)文全体が、「白粉」と「嫉妬」、「肌」と「感情」の対照法になっている。「荒す」というのが、共通の属性である。《人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦莫迦しい。重大に扱はなければ危険である。》(芥川龍之介『侏儒の言葉』)ここも、最初の唐突な直喩を補足説明するために、頭語反復的な対句が使われている。

 このように単純な直喩は少なく、ニュアンスを伝えるものが多い。端的で妥当で表現的というのは、よほど生成が困難であると見える。もちろん一見して言い得て妙という直喩表現もある。それらには、雨・風・雪といった、天気や自然の比喩をさりげなく言ったものが多い。それらは、ちょっと印象的という程度だが、この種の表現では、それくらいの節度が好ましく感じられる。《納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。》(小林多喜二『蟹工船』)《路傍に吹き溜ったシイやクスの古葉が、抜け毛のような雨に濡れていた。》(森内俊雄『谷端川』)《ふいに、ひんやりと、濡らしたハンカチのような影がおちた。》(安部公房『砂の女』)《しめっぽいぼたん雪は、まるで飯粒のように、ところかまわずベタベタとはりつくので、十メートルごとに立ちどまって、こびりついた雪をかき落さなければならない。》(『飢餓同盟』)《風といっしょに大鋸屑のように細い雪が飛んでくる。》(井上ひさし『青葉繁れる』)《朝まだき、まだ暗いうちから叩き起された服役者五百二十余名は喋る声さえ凍りつきそうな冷気の中、刑務所の中庭に整列させられた。》(筒井康隆『歌と饒舌の戦記』)

 ユーモアや皮肉も表現的な比喩の創造には大事である。《やがて焼きたての腸詰のような唇があらわれると、その唇は、規定量をはるかに越えた笑いのために、思いっきりねじ曲げられるのだった。》(安部公房『他人の顔』)《彼女はひびの入った茶碗を箸でうつような声で笑ったが、それさえぼくには、たまらなく美しく思われるのでした。》(『飢餓同盟』)《甲高いが、あいかわらず佳い声だった。鳥黐のように粘りがあり、おろしたての蠅取紙のように光沢がある。》(井上ひさし『吉里吉里人』)《チェリーは刑事の前を爪先立ちして弾むように薄暗い廊下を歩いて行く。白い尻が夜道を照らす提灯のように揺れていた。》(『入歯の谷に灯ともす頃』)《まさかとは思ったが、私が二本食べた他はぜんぶ彼女がたいらげた。重機関銃で納屋をなぎ倒すような、すざましい勢いの食欲だった。》(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)これらの諸例において、誇張法の使用を正当化するものは、やはり皮肉やユーモアの精神である。

 佐藤信夫も、御殿場のウサギの比喩に、漱石らしい表現のコミックを感じとるとともに、それを、井上ひさしなどの作品に見られる、奇妙なユーモアの味と結びつける。「《その頃は方角もよく分らんし、地理などはもとより知らん。まるで御殿場の兎が急に日本橋の真中へ放り出されたような心持ちであった。》(『倫敦塔』)[...]認識上べつに変わったところはないのだが、表現がおもしろい。私たちはこの直喩から、いかにも漱石らしさ(の一面)を感じ取る。数十年のちに北杜夫や井上ひさしに見いだされるような、風変わりなおかしみを感じ取らずにはいられない。」(23)井上ひさし自身、『自家製文章読本』のなかで、次のように、漱石作品の模作的引用を行っているのは、愉快である。「国語辞典は実用文を《文学作品として書かれるものでない、実務的な文章》(小学館『日本国語大辞典』)と定義しているが、これではなんだか曖昧だ。漱石なら《棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしな》(『草枕』)い、と書くところである。」(24)


 中村明は、条件を三つに分けることもしないし、現代的な口調でかみくだいて語ってはいるが、大体、五十嵐と同じような指摘を行っている。「直喩表現は、喩えるものと喩えられるものとの共通点が受け手に理解でき、しかも、その置換が思いがけない方向に跳ぶときに、効果が大きくなる。『ケチャップは寓話のようだ』などと言ってみても、普通の人にはほとんど理解できない。といって、『ブランデーみたいなウィスキー』のような例では、比喩的転換の角度も距離も小さすぎて、あまり効果が期待できない。また、作品の雰囲気との関係もあって、『排泄物のような』とか『猿の尻みたいに』とかといった喩詞が、メルヘンの世界をこわすこともある。」(25)ある意味では、この中村の記述は正しい。むしろ問題を含んでいるのは、彼が気軽に提示した、三つのタイプの用例である。

 1 ケチャップは寓話のようだ 2 ブランデーみたいなウィスキー 3 排泄物のような

 これらは、いずれも、直喩にならないマイナスの例として挙げてあるのだが、一歩間違えると、これらの没にされた比喩も、文脈次第で、表現的なものに生まれ変わることもあるから、不思議である。最初の例は、似ても似つかない二者を比較するものである。先に「彼女の頬はリンゴのように青い」という例の説明の箇所で示したように、修辞学では、この種の表現は濫喩と呼ばれている。直喩は、先にも指摘したように、譬えるものと譬えられるものとが必ずワンセットになって文脈に登場するし、両者の比較を明示する繋辞も多くは付いてくるために、本来、隠喩にくらべて、自由な組合せが可能なのである。この点について、石井慎二編の『レトリックの本』(JICC出版局1981)は書いている。「直喩表現であるためには、比較が想像上のものであることと、ズレが必要のようだ。構文上の形が同じなので区別しにくいことがある。直喩の特色――新しい類似性を創り出すことができる。この点で、類似性を前提にした隠喩とことなる。隠喩は類似性の謎ときだが、直喩は類似性の創造だ。そのため、奇想天外なものは直喩に多い。」(26)。佐藤は、そうした極端な比喩の可能性について、次のように述べている。「たとえば「白昼のような夜」とか「死のような生」というような直喩さえ、ことばとして言えないことはないのだ。昼と夜、死と生は似ているだろうか。まさか「スッポンのような月」という直喩は考えられそうもないが、しかし可能性としては、常識的に似ても似つかぬ二つのものをつなぐ直喩も、十分に成立する。[...]読者にそれが受け入れられるかどうかは、また別の話だ。」(27)ここで注意すべきは、佐藤が、中村と違って、似ても似つかない直喩の可能性を積極的に認めている点である。ケチャップと寓話との比較にしても、スッポンと月との比較にしても、文脈が整えば、あり得ないことではないのである。

 実際、シュールレアリストたちの詩句は、いつでも、我々の常識を裏切る、人の意表をつく表現の連続である。彼らは、そうした奇抜な表現をより自由に創造するための道具として直喩を利用する。隠喩と違って、直喩には、譬えるものと譬えられるものが文中で明示されるために、そして、繋辞をはさんでほとんど隣り合せに置くことになり、対比の効果が期待できるために、彼らはこれらの表現を好んで使う。グループμは書いている。「シュールレアリストの言語のおかげで我々は、さらに別種の直喩に慣れるようになった。そしてブルトンは、ロートレアモンにおける「......のように美しい《Beau comme...》」という非常に興味深い事例に、注意をひきつけたのであった。」(28)ジュネットも、共起制限の向うで、従来の意味場をはずれた、二者の異常な結合の可能性を、隠喩よりも濫喩的な直喩の使用のうちに見ている。「隠喩では、比喩されるものが[字句の上で]無いために、全体として意味のつかめぬままにとどまるおそれがあって、意味論的変則が許されないのだが、直喩にあっては、これが許されている。しかもこの効果によって直喩では、隠喩の特徴である[表現における]強度の不足を補うことができる。この[意味論的変則の]効果、これを特にジャン・コーエンは非関与性と呼んだのである。」(29)こうして、ジュネットは、似ても似つかない二者の比較による直喩使用の源泉を、シュールレアリストの詩や、民衆語的な常套句に見られる無意味な比喩語句の添加のなかに求めようとする。「エリュアールの詩句『大地はオレンジのように青い』、または『〜のように美しい』という一連のデュカス流の表現を、誰でも思い出すだろう。また合せて考えられるのが、一般大衆の言葉づかいにおける、恣意的直喩(『月のように[馬鹿、等]』や、反用語法(『刑務所の門のように愛らしい』、『アスピリン錠のように赤銅色に日焼けした』、『堅ゆで玉子のように髪のふさふさした』)への嗜好、またはピーター・シェイニイのような人[...]の言葉づかいに生気を与えている言い回し、つまり『女信心家のミサ書のように開いた両腿』のような言い回しに対する嗜好である。」(30)隠喩の問題ばかりに目が行きすぎると、こうした直喩の表現的な効果をつい見のがすということにもなる。

 また二番目の「ブランデーみたいなウィスキー」については、漱石にも「よだれのごとくつばを吐いた」(『虞美人草』)という類語反復的な直喩表現が見られるように、皮肉やユーモアの道具となり得る。それをもっと極端にしたものに同一差異法がある。同一差異法とは、譬えるものと譬えられるものとを、形式的にはまったく同じものにしておいて、意味を多少ズラして使うもので、正規の修辞法ではないが、石井慎二編の『レトリックの本』に報告されている。「かなり現代的で皮肉な用法として、「同一差異法」というのが開発されている。たとえば、『犬が犬のように笑った』という言い回し。これはもう分裂的な世界だ。『それだけのものでしかない』というニュアンスで、『わたしの妻は三十年のあいだ文句ひとつ言わなかったが、いかにも三十年間文句ひとつ言わない妻といった女だネ。』と言う。」(31)普通、人は、むずかしくて説明しにくい何かを説明するのに、もっと卑近な譬えを使ってわかりやすく説明する。当然、相手は、譬えるものと譬えられるものとは、種類の少し異なる語であることを期待する。だから、そこに似ても似つかない二者を並べられても、まったく同一の語を並べられても、意表は突かれるわけである。

 相対的な印象効果の高さについては、三番目の「排泄物のような・猿の尻みたいに」という表現も負けていない。トイレの落書を見てもわかるように、人は、たわいもない、下半身の話を好むということがある。これらを題材にした比喩は、快不快は別にして、とにかく、印象に残りやすいのは事実だ。仮に中村のいうように、ロマンチックなメルヘンのなかに、こういった、いわば下ネタ志向の直喩が挿入されていれば、それこそ胸に焼きつくこと受けあいである。もちろん、使用の必然性、まじめな動機があっての話だが。たとえば、井上ひさしの『江戸紫絵巻源氏』(文藝春秋1985)は、その種の下ネタ話とレトリックが満載のパロディーであるが、日本語を豊かにするための提言で満ち満ちている(32)。つまり、井上は、そのことを知ってもらうために、おびただしい量の猥雑といえるほどの言語表現を作品にもちこんでいる、といっても過言ではない。ただ、レトリックを活かす間がないのが、この作品の弱点といえば弱点である。石井編の『レトリックの本』も、その種のテーマと用例を中心に据えていたように、レトリックと猥談的発想とは切っても切れない関係にある。そういった意味で、下半身の比喩表現を好む作家には大江健三郎がいる。『レトリックの本』は、《少女のクリトリスが植物の芽に似ているのを素早く見た。》(『死者の奢り』)(33)という例を収録しており、井上ひさしの『自家製文章読本』では、《性器はどこもかも縮みこんで膨ら雀のように股倉の屋根にちょこんととまっていた》(『セヴンティーン』)という例が報告されている(34)。

 また、夏場のホラー映画やテレビの恐怖特番の盛上がりからも判断されるように、血なま臭いものとか、心霊現象に対して興味を持つ人は多い。死の恐怖に還元されるような事柄に対して、目を背けながらも、怖いもの見たさから、人はこれらに注意を注ぐ。さらに、宇宙の神秘や未来社会を描いたSFものや幻想小説に対する一般読者の関心の高さについても、事は同様である。たとえば、筒井康隆にあっては、血なま臭い幻想を平和な日常生活と錯綜させることによって、SFとレトリックとナンセンスとの間に見事な融合が図られていた(35)。また先の石井編の『レトリックの本』は、幻想小説と直喩との関係について、山田風太郎を例にとりながら、「直喩の現実化」というテクニックに触れている。「幻想小説では直喩が大切な役目をはたす。山田風太郎さんの作品の幻想的な雰囲気は、おびただしい直喩の量による。[...]もうひとつ幻想小説で重大な機能をはたすのが「直喩の現実化」というもの。『銅像がまるで生きているよう』だという感じを受けるが、その後の不可解な出来事の原因が実際に銅像が生きて動いていると考えなければ説明がつかない、といったストーリー展開をする幻想物語が多い。山田風太郎さんの忍者も、その術を自然力で喩えるのは、自然力の肉体化(現実化)といえる。」(36)


 これまでは直喩でないようで直喩になり得る表現の可能性を探ってきたが、ここで、直喩のようで直喩でない形式の存在に注意しよう。つまり表面上、「〜に似て」とか、「〜と同じように」とか言われているからといって、それが必ずしも直喩になるとは限らないということだ。グループμは書いている。「いかなる場合においても修辞学の分野の外にある種類の直喩を、細心に取り除いておかねばならない。すなわち本当のたとえと呼びうるたとえである。このような呼び方をすれば、修辞学の文彩の方は常に誤りであるということを、改めて指摘することにもなろう。たとえば『彼はその父親と同じように強い』とか『彼女はその姉と同じように美しい』というのは、正しい述定以外のものではありえない。」(37)もちろん、それらの表現も文脈次第で、直喩になる可能性はもっている。先のふたつの表現について、「彼が弱々しかったり、彼女が醜女であるなら、文彩がかけ足でまい戻ってくることに気づくであろう。すなわちそれらは反語(Ironie)的に口にされているからであり、これは、我々の体系では論理変換の一つ、つまり必然的にメッセージの指示対象に関係する文彩である。そしてまさしく、このように修辞的譬えの多くは論理変換であり、そしてたいていの場合は誇張法なのである。」(38)

 ところで、直喩というと、ポピュラーな修辞法で、陳腐な比喩を思わせるらしく、地味な技法として、これまであまり問題視されなかった。比喩とほとんど同一視されるのは隠喩の方であって、その手の書物は巷にあふれているにもかかわらず、直喩のみを扱った本はなかなか出てこない。たしかに、このことは、レトリックが再認識されるようになって以来、声高に叫ばれるようになった。国内では、佐藤信夫が、直喩の権利回復を訴えていた。「直喩をめぐる問題は、まだ山積みしている。[...]隠喩などにくらべて、古来、直喩はあまりにもなおざりに扱われてきたのだ。」(39)この点については、『レトリックの本』も、別なかたちで問題提起していた。「日本語の文章での比喩といえば、ほとんどが直喩で、隠喩はあまり重視されない。西洋ではまったく逆だ。隠喩の研究がさかんで、直喩はかえりみられない。このちがいはどこからくるのだろう。」(40)そういえば、内外の文学作品から比喩を集めた、榛谷泰明の『比喩表現辞典』(白水社1988)を開いてみても、日本のものでは、直喩が圧倒的に多い。しかも、たしかに、意表をつく直喩表現が、ところ狭しと書き並べられているのである。これは多彩な比喩標識に鍵がありそうである。日本語は、文の組み立てには後置詞を必ず必要とする漢字仮名混じりの膠着言語であって、語彙的な要素のみをぽんぽんと繋いで行くわけにはいかないということがある。英語の場合は、前置詞を使うのは間接目的語や状況補語だけで、主語や直接目的語のような基本的な文の要素には前置詞はつかない。他方で、比喩標識は後置詞にも似た連結辞であって、それが発達しているということは、それを使わないと不自然な状況がある、ということだ。詩はともかく、散文の世界で、繋辞を省いた、特に「不在の隠喩」と呼ばれる本来の隠喩の形式を使うと、唐突すぎて、不可解な表現になってしまう。詩の場合は、時間をかけて共示現象の解明を行うことで、難易度の高い知恵の輪のように、その過程を楽しむことができる。その点、現前の隠喩や直喩の場合は、何らかの標識的な語句、または、比較の第一項の顕在によって、少々、意表を突くような言い方をしても、何の差し障りもない。その辺に日本語で隠喩よりも直喩の好まれる要因がある。「〜のように」という形式で誰でも気軽に作れるし、文中で簡単に見つかるという、そんな直喩の扱いやすさにも、原因があるのか。論文程度の記述であれば、ある程度見られるが、著書がほとんどないのは、直喩が学問的な分析・分類に耐えない代物とみなされているからではないのか。

 ジュネットは、『フィギュールIII』のなかで、比喩論の世界が隠喩という術語に占領されつつある現状に心を痛めていた(41)。「実際ひとも知るごとく、隠喩という術語はしだいに類比の領域の総体を覆いつくす傾向にある。古典的気質では、隠喩に明示されない直喩をみていたのに、現代はすすんで直喩を、明示されたもしくは動機をもった隠喩としてあつかうだろう。このような用法の特性を最もよく示す例が、明らかにプルーストにみられる。彼はその著作で、大抵の場合は純粋な直喩であるものを、たえず隠喩と呼んでいた。ここではまた、この[隠喩への]還元の原動力が、詩の言説をめぐる、もしくは(プルーストでのように)一種詩的な言説をめぐる文彩的なものの広がりのうちに、充分はっきりと姿を現わしている。我々はもはやホメロス的直喩を相手にしているのではないのである。そして隠喩は、転義における意味の濃密化によって、発達した文彩形式に対するほとんど自明な美的優越性を保証されているのである。マラルメまでもが一人合点で、『のように』という[直喩をあらわす]語を自分の語彙から放遂したと思いこんでいた。」(42)


 大山敏子も、派手で奥深いものに見える隠喩表現(Metaphor)の陰に隠れて、ともすれば、平凡で、変化に乏しく、単純なものと見なされがちな直喩(Simile)に対して、その認識不足を改めさせようとする(43)。「SimileはMetaphorと比較して、直接的に用いられた比喩であるということはできるが、Metaphorより素朴で単純なものであると断言することはできない。文章の中で果している役割はMetaphorと同様に、またある場合にはMetaphor以上に複雑であるからである。」(44)大山は、1956年に刊行されたその著作のなかで、直喩に一章を割きながら、英語レトリックの伝統に従って、このポピュラーな比喩を、二分法的に、次のように区別する。「Simileは大体に於てDescriptive Simile(叙述的直喩)と、Intensifying Simile(強意的直喩)に区別される。Descriptive Simileの中には、Simple Simile(単一直喩)と、Expanded Simile(拡充直喩)――即ちHomeric Simile又はEpic Simileと呼ばれるものが挙げられ、Intensifying SimileにはProverbial Simile[諺的直喩]やAlliterative Simile[頭韻的直喩]などがあげられる。」(45)

 叙述的直喩は、文学作品に新鮮さや独創性を与えることが多く、現代作家に好まれる技法の一つである。叙述的直喩と強意的直喩との区別については、丸谷才一も、『文章読本』の第九章「文体とレトリック」のなかで、これに言及している(46)。「厳密に言へば直喩にも二通りあるので、第一は詩的なもの――詩的な比喩が成功するためには、思ひがけないイメージの衝突が必要らしい。二つの天体が紐でつながれるのもさうだが、たとへば、《豆もあつた、灌木ほどの高さに育ち、鉈状の房が褐色に熟れてはじけ、小さな黒い粒を露出させてゐた。》(大岡昇平『野火』)における豆の房と鉈との取合せなど、このへんの呼吸をまことによく教へてくれる。――第二は常套句的なものである。前者(叙述的直喩といふ)の例としては今の大岡の三つをあげればよからうし、後者の例としてはさしあたり『血のように赤い』とか『独楽鼠のように働く』とかが頭に浮ぶ。」(47)

 単一直喩とは簡潔に一言で比較するもので、大山は、その例として、『ハムレット』から有名な「らくだ」の比喩を引用している(48)。丸谷もその箇所が印象に残っていると見えて、同じ『ハムレット』の例を引用している。「シェイクスピアの場合でいちばん有名なのは、言ふまでもなく、ボローニアスの、「仰せの通り、あれ[雲]はまさしく酪駝のやうでございます」(『ハムレット』)といふ台詞である。」(49)しかし、雲はもともと眺める人の想像力次第で何にでも見えるものなので、これがシェークスピアのせりふでなければ、この単一直喩が表現的であるとは考えにくい。雲の変幻自在性が直喩の成立を妨げるのである。単一直喩で、十分に表現的なものを見つけるのは苦労する。なぜなら、意表を突く表現を創造することはたやすくても、その表現の使用を読者に納得させることは大変だからである。読者の側の驚きと納得は修辞解析の基本である。それに対して拡充直喩とは比喩の部分が長いものをいう。大山によれば、「特に注意すべきはAs when......とかRight as......とかいう言葉ではじめられている長いSimileは、元来Homer等のepicの技巧を模倣したもので、Homeric Simileとか、Epic Simileとか呼ばれることである。[...]Epic SimileはHomerからDante, Boccaccioなどを経て、十四世紀後半にChaucerによって英詩の中にとり入れられ、またAriosto, Tassoなどから十六世紀にSpencerによって英詩にとり入れられて、非常に多く詩人たちによって用いられ、英語の表現に重要な役割を果すようになったものである。Homerでは、大体素朴なDescriptiveな役割のみを果していたものが、Danteでは、思想の転換や、感情の変化を示す観念的なものとなり、これが英文学にとり入れられたときには更に複雑なものとなっていた。」(50)通常、文学作品のなかで、表現的な直喩として取り上げられるのは、この手の拡充直喩である。

 強意的直喩(常套句的なもの)は、叙述的直喩(詩的なもの)そのものから生まれ育ってきたが、それと違って、比較が問題となるわけではなく、誇張法的に、ただ単に意を強めるために使われるものである。使いはじめの頃は、比較や叙述の意味が強かったものが、使われているうちに次第に強意的なものになったのだと考えられよう。丸谷は書いている。「この常套句的な比喩は修辞学教科書では強意的直喩と呼ばれるもので、見方によつては民衆の詩情のあらはれだが、もとより誇張を目的とした不正確なものだ。[...]一般論としては、強意的直喩はあながち軽蔑すべきものではない。それは表現を簡潔にし、事情をすばやく呑込ませるのにすこぶる調法なものなので[...]ある。ただしあらゆる常套句と同じやうに、それが頻出すれば文章は鈍くなり、文体の鮮度が落ちるから、惜しみ惜しみ使ふことが大事なのだ。[...]読者の意識に対する摩擦度から言へば、最も刺激が強くて緊張を高めるのは隠喩であり、中間にあるのは叙述的直喩、そしていちばん気楽で疲れさせないのはこの強意的直喩といふことになるだらうが、文章では、あまりくつろがせてばかりゐるのも考へものなのである。」(51)ただし、この叙述的直喩から強意的直喩への移行は一方通行ではないことに注意されたい。月並みな成句が直解主義(リテラリスム)によって蘇ることだってあるのだ。直解主義については、(52)の註を参照されたい。

 強意的直喩には、頭韻的直喩と諺的直喩とがある。強意的直喩は、しばしば、頭韻法(alliteration)――各語の語頭に同じ音をもってくる一種の語呂合わせ――を伴う。中世においては、英詩の世界で頭韻は一般的なものであった。それが熟して慣用表現になったのである。たとえば、大山は次のようなものを英語の頭韻的直喩の例として挙げている。《as blind as a batコウモリのように盲目の、as busy as bees 蜜蜂のように忙しい、as clear as crystal 水晶のように透き通った、as cool as a cucumber きゅうりのように冷たい、as good as gold 金のようにりっぱな、as green as grass 芝草のように緑色の、as mean as a miser守銭奴のようにしみったれた、as meek as a maid 乙女のようにおとなしい、as proud as a peacock 孔雀のように高慢な、as pure as pearl真珠のように純粋な、as queer as a Quakerクェーカー教徒のように奇妙な、as red as a roseバラのように赤い、as slow as a snailカタツムリのようにのろまの、as still as a stone 石のようにもの静かな、as tall as a tree木のようにのっぽの》(52)《水晶のように透き通った、乙女のようにおとなしい、孔雀のように高慢な、クェーカー教徒のように奇妙な》などのように訳語で頭韻に近い効果を出せることもあるが、大半は、訳出によって原語の雰囲気が損なわれてしまう。筆者が頭韻を二次的な修辞法だと考える根拠はここにある。どの言語に置き換えても通用するものを、まず問題にすべきなのである。

 諺的直喩では、神話や伝説から取り入れられたものが多い。《アイアスのように気違いじみた、メトセラのように年をとった、ルシフェルのように傲慢な、ユダヤ人のように金持の、クロイソスのように金持の、ヘラクレスのように力の強い、ニオベのように泣きぬれた、ソロモン王のように賢い》(53)これらの表現についても、時代が時代なら、場所が場所なら、それらは陳腐なものとして放棄されるであろう。しかし、使われなくなった時期に使うとか、場違いな文脈で使うとかすれば、ちょうど、リサイクルの再生品のように再生されることもある。かならず固有名詞を使う神話的比喩では、当の神話に関する知識の有無も、表現性に関係する。また諺的直喩では、元々比喩として使われていたものが、徐々に慣用的になった例も多い。《雲雀のように陽気な、昼のように明るい、施しのように冷たい、獅子のように残酷な、墓石のように秘密の、地獄のように暗い、タールのように黒い、井戸のように深い、五月のように新鮮な、子鹿のように優しい、王のように幸福な、猟師のように飢えた、羽毛のように軽い、狐のように狡猾な、縫針のように鋭い、鼠のように黙った、銃のように確かな、鋼のように真実の、雪のように白い》(54)など。なおこれらについては、強意の意図ををもつものともたないものとがあることに注意されたい。グループμも、次のような成句的直喩について、それらを提喩的な変換とみなすことによって、検討を加えている。《みみずのように裸の、昼のように明るい、雨のように退屈な、心臓のようにかわいい、王のように幸福な、鯉のように黙った、風のように汚い、神のように美しい、壺のように耳の聞こえない、トルコ牛のように強い、ポーランド人のように酔った》など。「もちろん以上の紋切型の直喩は、わけもわからずに使われることが多く、独創的な表現とは大ちがいである。この種の紋切型の本体はたいていの場合、強調、最上級、あるいは誇張的価値をもつ言いまわしであり、その言いまわしは意味論的な単位として機能する。しかしこの単位には、右に示したように、メタ言語の上で二つの部分に分割することが確かにできるし、そうすることによって第一の語が第二の語に対して一般化の提喩の関係にあることが明確になる。あるいはより正確に言えば――何故ならひきたてられているのは第二の語であるから――第二の語は意味素の附加によって第一の語を個別化する、ということになる。そうなればこの種の言い方を、附加による現前の語義変換とみなしたい、という気になるかもしれない。しかし現実には語彙コードに違反していない以上、そこに意味論的文彩は存在しない。」(55)ここでも、文脈が考慮されていない。問題の要素だけを取り上げて判断することは修辞学ではかなり危険である。文彩は言語と文体の間を行ったり来たりするものだから。


 最後に、実用文と直喩の不在に関する井上ひさしの考察をみてみよう。井上は、これまで、広告コピーや実用文のレトリックの問題にこだわりを見せてきた。金属バット殺人事件の冒頭陳述の文章について、井上は書いている。「実用文の最右翼のひとつに、法定で用いられる文章のあることは疑いを容れない事実だ。たとえば無味乾燥の代名詞のような検事の冒頭陳述にどう修辞術が用いられているだろうか。[...]字面だけを追えばこの上なく地味であっても、気をつけて読むと、誇張に婉曲、緩叙に列叙、それから迂言に冗語法と修辞術が総揚げされているのがわかる。陳述書の目的は裁判官に己れの論理を訴えることにあるから、修辞術で論理を鎧おうとするのは理の当然だろう。」そのあとで、彼は、この陳述書に直喩が極端に少いことに注目する。「二十四枚もの長文の陳述書なのに、直喩、あるいは直喩的表現は、わずかの三つである。そういえば、[先に引用した]催促文にも直喩は皆無だった。番組企画書には隠喩は豊富だったが、しかしやはり、『のような』『みたいな』『に似た』『にそっくりの』『まるで〜の』といった型で導かれる直喩、これが一つもなかった。これはいったいどういうことか。」(56)おまけに井上は、山下清の作文や日記についても、実用文の一種とことわった上で、そのなかにもほとんど直喩が見つからなかったことを報告している。「『裸の大将放浪記』(ノーベル書房)の監修者の式場俊三はそのへんの事情を、《清の手記もまた、すべて保護者である八幡学園の先生に読んでもらうためのものであった。作文は課題であり、追想日記は就寝前の夜業として書かされた。(略)ノートで二頁、あるいは半紙一枚にびっしり書きこむのがノルマだっただけのことであった。》と説明しているが、実用文だから直喩はほとんどない。」そのあと、彼は、アトランダムに『裸の大将放浪記』のページを開きながら、「やはり直喩は一個もない。全四巻で直喩といえば、『おばさんは汽車時計のようです』『藁の積み方は家を作っているようです』『色々の虫が鳴くので虫のがくたいと同じです』など、十指で充分に用が足りるのである。」(57)こうして彼は、実用文における直喩不使用の理由をこう結論づける。「ここまで書けば読者諸賢の慧眼は、『直喩とは、書き手が読み手に事情をよりよく、明瞭に伝達するために、もうすこし大袈裟なものに、真実や事実をたとえていうことだな』とお見抜きになったはずである。その答えは正しい。直喩の基本的なところを衝いている。Aのような甲、Bそっくりの乙、まるでCのような丙という場合、Aと甲、Bと乙、Cと丙との間になんらかの類似点はあるが、しかしABCは甲乙丙よりいくらかは大袈裟である。すくなくともABCは甲乙丙とズレる。実用文では、事実と文とが同一である、というのがタテマエだから、直喩を寄せつけようとしないのだ。実用文は文章意識=修辞術を容れないのではない、むしろ修辞術のよいお得意なのだ、ただ、直喩だけは嫌うのである。」(58)通常、ある概念なり語句なりの説明に直喩を使うと、その第二項の方は、当の第一項より、多少ともズレた、誇張された表現になる。そこで、そんな主観によってイメージを膨らませたような不正確な言い回しを、報告文タイプの文章が避けるというのは、よく理解できる。比較の妥当性と真実性については、どんな言述でも、これを守ることが肝要である。しかし、客観性が極度に問題となるような世界では、人の意表を突いて特定の箇所に注意を釘づけにする必要がない。面白く書く必要もない。したがって、表現の斬新さという、五十嵐力が最初に挙げていた必要条件を満たさないから、そこでは直喩は成立しないのである。ただ、弁護士や検事の弁論は、元々、今のようにレトリックが主に文語修辞法を指す以前は、何よりも雄弁術だったわけだから、陪審や裁判官の説得のために必要と判断された場合は、直喩といえども駆り出されることはあるだろう。

結    語

 直喩研究の指針となるものをまとめよう。1問題提起としての直喩の優位性――隠喩は「転義における、意味の濃密化によって、発達した文彩形式に対するほとんど自明な美的優越性を保証されている」(ジュネット)こともあって、隠喩研究は急速に進んだが、直喩は比喩標識の顕在によって、より自由な組合せを考え得るという点で、隠喩より優れている。そのことは、シュールレアリスト達の唐突な詩句や、一般大衆の使う強意的で無意味な常套句表現が物語っている。2直喩成立の条件――比較の穏当性、真実性の最重視。表現の斬新さと分かりやすさとの両立。読者の側の驚きと納得。発見的認識の造型。比喩認識と経年や知識差の問題。3直喩と他の技法――比喩の連続使用、諷喩、隠喩、逆説法、誇張法、擬人法、対照法、対句、警句、自然の比喩の特殊性、ユーモアと皮肉、暗示引用、模擬・模作・パロディー、濫喩、同一差異法、下ネタ志向的直喩、直解主義、頭韻、直喩の現実化。端的で妥当で意外な直喩創造の困難さ。4直喩の分類――内容別を超える操作的分類法の模索。直喩には叙述的直喩(詩的なもの)と強意的直喩(常套句的なもの)があり、叙述的直喩には単一直喩(短い比較)と拡充直喩(長い比較)があり、拡充直喩はホメロス的、ないしは、叙事詩的直喩とも呼ばれ、強意的直喩には諺的直喩と頭韻的直喩がある。また、直喩は相似直喩(似たもの同士の二者の比較)と相違直喩(似ても似つかない二者の比較)に分けられることもある。5繋辞の問題――日本語では、比喩標識は、人称詞がそうであるように、英語などよりバラエティーに富んでいる。また、作家の例では、語調を考えて、それは比喩表現と結びついている恐れがあるので、その細目を云々することは大事である。つまり、ある表現とそれに付随するある標識とは一対のものとして考えねばならない。6直喩としての現前の隠喩――繋辞なしの比喩も、比較の第一項が文脈に示されている限り、一種の直喩である。それは現前の隠喩と呼ばれる。それに対して、第一項が文脈に示されていなければ、それは完全な隠喩である。それは不在の隠喩と呼ばれる。7論理変換的直喩の無効性――直喩は語義変換的なものと論理変換的なものとに分かれる。通常、修辞法で問題となるのは前者である。後者はほとんど直喩とは言えず、文脈を考慮しなければ、単なる譬えにすぎない。8実用文と直喩の不在――法律の文章などでは、面白く書いたり、印象的に述べたり、大袈裟に表現したりする必要がない。そこでは、事実を客観的に伝えることが問題となるために、直喩は敬遠される。



 (1)『レトリック感覚』(講談社1978)と『レトリック認識』(講談社1981)の巻末で、佐藤信夫はこれらの明治期に造られた別称の一覧を与えている。

 (2)欧米の著作では、古代ギリシア・ローマの修辞学の網羅的な案内書として、『文語修辞法便覧』がある。このラオスベルクの大著は、300余種の修辞法を豊富な用例と共に収録している。Heinrich LAUSBERG, Handbuch der Literarischen Rhetorik, Munchen,Max Hueber, 1960 (2 vol.), Franz Steiner, Stuttgart, 1990 (1 vol.)

 (3)中村明、『日本語レトリックの体系』、岩波書店、1991、p.262

 (4)五十嵐力、『新文章講話』、早稲田大学出版会、1909、p.224

 (5)筆者は、漱石の小説や随筆から、陳腐なものも含めて 679例の直喩ないしは直喩的な表現を取り出している。その内容については、別な機会に紹介できればと考えている。なにしろ、佐藤信夫によれば、漱石は「近代日本の数少ないレトリックの達人のひとり」なのである。なお、中村明は、『比喩表現の理論と分類』(秀英出版1977)のなかで、名詞、形容詞、動詞、形容動詞、助動詞、副詞、助詞、連体詞、接辞の各タイプを見分けながら、日本文学の諸作品の中から82種 357個の比喩標識要素を抽出している。

 (6)グループμ、佐々木健一ほか訳、『一般修辞学』、大修館書店、1981、p.224

 (7)Pierre Fontanier, Les Figures du Discours, Flammarion,1968, p.377拙訳

 (8)ibid.,p.377拙訳。

 (9)この『辞典』には、隠喩を含めた漱石の14例の比喩表現が収録されている。

 (10)ロラン・バルト、沢崎浩平訳、『旧修辞学』、みすず書房、1979、p.146

 (11)グループμ、前掲書、pp.222-223

 (12)中村明、前掲書、p.263

 (13)Pierre Fontanier, op.cit.,p.379拙訳

 (14)五十嵐力、前掲書、pp.230-231

 (15)同書、p.231

 (16)同書、p.233

 (17)榛谷泰明編、『比喩表現辞典』、白水社、1988、p.235

 (18)五十嵐力、前掲書、p.234その他、五十嵐は、作文指導の立場から、全体の語調にも気を配るように注意している。「右に挙げた外、譬喩を用ゐるに当たつて深く注意すべきは、語句全体の調子の美はしく整ふことである。文句が整はざれば折角の妙譬喩も価値なきものとなつて了ふ。」(同書、p.235)修辞に意識的な作家の用例では、はじめから語調や文のリズムには配慮がなされていると考えることができる。したがって、その文の一部を改変したりすると、そのリズムが損なわれることがあるので注意を要する。

 (19)佐藤信夫、『レトリック感覚』、講談社、1978、p.77

 (20)同書、p.49-50

 (21)同書、p.74

 (22)同書、p.75

 (23)同書、p.67-68

 (24)井上ひさし、「透明文章の怪」、『自家製文章読本』、新潮社、1984、p.56

 (25)中村明、『日本語レトリックの体系』、岩波書店、1991、p.264

 (26)石井慎二編、『レトリックの本』、JICC出版局、1981、p.226

 (27)佐藤信夫、前掲書、p.66

 (28)グループμ、前掲書、p.222

 (29)ジェラール・ジュネット、「限定された修辞学」、花輪光監訳『フィギュール。』、書肆風の薔薇、1987、p.58

 (30)同書、pp.58-59

 (31)石井慎二編、前掲書、p.226

 (32)井上ひさしは、自他共に認める、日本でも有数のレトリシャンである。日本語三部作といわれる、『私家版日本語文法』(新潮社1981)と『自家製文章読本』(新潮社1984)と『ニホン語日記』(文藝春秋1993)は、これまで日本語についての刺激的な啓蒙書として読まれてきた。しかし、タイトルにも修辞的な工夫(私家版・自家製・カナ書きのニホン)がみられるように、これらはいずれもレトリックの本として読まれ得る。たとえば、先の石井慎二編の『レトリックの本』は、『私家版日本語文法』について、次のように書いていた。それは「第二次日本語ブームの火つけ役」で、「刺激的だから一挙に読める。井上ひさしさんには、いつかレトリックの本を書いてもらおう。」(石井慎二編、前掲書、p.247)中村明も書いている。「井上ひさしの例だけで間に合うほど、この作家はこういう方面の表現を多用する。」(中村明、前掲書、p.320 )

 (33)石井慎二編、前掲書、p.225

 (34)井上ひさし、「透明文章の怪」、『自家製文章読本』、新潮社、1984、p.54

 (35)筒井康隆は、字づらに細工をしたり、形式的に奇を衒うようなところは、それほど感じられないが、ただ読者に対して論理面から徹底した印象づけを行おうとする。そのため、彼の作品は、どこを切り取っても、日常性を裏切る、論理的におかしな表現が目白押しである。彼の短編は、よくできたホラー映画の出だしのように、いつも、日常生活のほのぼのとした一コマから始まって、血なま臭い情景描写に終わる、といっても過言ではない。彼は、論理の矛盾を全面にさらけ出してナンセンスにもっていくブラック・ユーモアを得意とする作家であり、また、井上ひさしのようにパロディーの名手でもある。

 (36)石井慎二編、前掲書、p.226

 (37)グループμ、佐々木健一ほか訳、『一般修辞学』、大修館書店、1981、p.221

 (38)同書、pp.221-222

 (39)佐藤信夫、『レトリック感覚』、講談社、1978、p.76

 (40)石井慎二編、前掲書、p.226

 (41)ジュネットは、古典修辞学を代表するフォンタニエの『文彩論』の序文を書く一方で、自ら『文彩』という名の三部作を著して、レトリックの文学的な見直しを図った。

 (42)ジェラール・ジュネット、前掲書、pp.57-58 なお、丸谷才一も、『文章読本』のなかで、詩的な直喩を自由に操る作家の代表としてプルーストを挙げている。「なほ叙述的直喩を連続的に使ふのは戯曲や小説の最も効果的な技法の一つで、今世紀におけるその代表者はもちろんプルーストである。彼はこの型の直喩で文章を飾り、論理を展開し、詩的啓示とでも言ふしかないものをつきつけた。」丸谷才一、『文章読本』、中央公論社、1977 プルーストの直喩については拙著の第十章を参照されたい。久野誠、『レトリックからコントラストヘ』、駿河台出版社、1985、pp.137-158

 (43)五十嵐の次の記述は、そんな直喩のとっつきやすさを物語っている。「詞の文なし方数多ある中、古来最も多く用ゐられ最も効力あるものは譬喩法である。譬喩法の中、形式の最も素直にして最も理解し易きは直喩法である。」(五十嵐力、前掲書、p.224)

 (44)大山敏子、『英語修辞法』、篠崎書林、1956、p.32

 (45)同書、p.33

 (46)第九章は彼の『文章読本』の圧巻であり、井上の『文章読本』に次の記述がある。「丸谷才一の文章読本は掛け値なしの名人芸だ。たとえば文体論とレトリック論を、大岡昇平の『野火』一作にしぼって展開してゆく第九章などは、恐ろしいほどの力業である。」(井上ひさし、「滑稽な冒険へ旅立つ前に」、『文章読本』、新潮社、1984、p.10)

 (47)丸谷才一、『文章読本』、中央公論社、1977、pp.187-88

 (48)大山敏子、前掲書、p.33

 (49)丸谷才一、前掲書、p.186

 (50)大山敏子、前掲書、pp.37-38

 (51)丸谷才一、前掲書、p.188

 (52)大山敏子、前掲書、pp.44-45拙訳。死んだ直喩ともいうべきこれらの常套句も、文脈の中で効果的な直喩に生まれ変わる可能性を秘めている。何がそれらをよみがえらすのかというと、それは成句の文字通りの使用である。プルーストは、『失われた時を求めて』の中で、作中人物のコタールにこう語らせている。「なぜ《キャベツのように馬鹿》なんだ?キャベツは他のものより馬鹿だと思うかね?同じ事を《36回くりかえす》というが、なぜ特に36回なんだ?なぜ《杭のように眠る》なんだ?なぜ《ブレストの雷》というんだ?なぜ《四百発やる》なんだ?」(M.Proust,A la recherche du temps perdu,Gallimard, Bibl. de la Pleiade, 1954, t.II, pp.922-923拙訳)そこでは、成句のもつ無意味さが告発されている。筆者はすでに、「プルーストと数字の誇張法」(関西大学仏文学会編『仏語・仏文学』第14号、1984収録)のなかで、cent foisやmille foisといった紋切型の回数表現を、文字通りに使うプルーストの諸例を報告している。なお、先の『レトリックの本』では、この種の成句を字義通りにとらえる手法を、直解主義と呼んでいた。

 (53)大山敏子、『英語修辞法』、篠崎書林、1956、pp.45-46

 (54)同書、pp.46-47

 (55)グループμ、佐々木健一他訳、『一般修辞学』、大修館書店、1981、pp.220-221

 (56)井上ひさし、「透明文章の怪」、『自家製文章読本』、新潮社、1984、pp.61-62

 (57)同書、pp.62-64

 (58)同書、p.64