文体的対照について


 すでに前稿で述べたように,リファテールにとって文体が最終的な浮き彫りでしかないとしても,対照原理は基本的な文体構造である(1)。個々の文体手法は,彼の論述によれば,文脈要素と対照要素との二元体である。そして,その手法の効果をそれに先だつより大きな文脈が制御するという形をとる。そんなわけで,技法の集中のようなボーダーラインケースはあっても,文体分析においては,対照は主要な基準である。

 とはいえ,彼の対照原理には問題がある。それは文脈という概念にある。ここで筆者は,リファテールが文脈の概念を重視するあまり,小さな対照単位では2要素が一気に等しくめだつということを見おとしているという点に触れようとしているわけではない。そのことにも関係してくるが,文脈に関するもっと素朴な疑間である。つまり,リファテールは,読書が原則として前から後へとなされる点にこだわるあまり,文脈をつねに当の文体要素に先行するものとして解釈している。だが,この限定は本当に有効であろうか。小文脈と大文脈との明確な区別は,それが個々の文体手法を作品のなかから直接取りだせるという限りにおいて,有効なものであろう。しかし,普通に文脈といえば前後関係の同義語であり,後続する文脈も先行する文脈と同じように重要であることをそれは示している。実際,筆者には文体

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分析においても後続要素の存在は無視できないように思われる。たとえば,大文脈の展開形式のひとつである「文脈→手法→文脈」というパターンを考えてみよう。これは手法の前の文脈が手法の後でもくり返されるというものである。リファテールの理論では,後の文脈は次の手法を準備するものでしかない。しかしながら,われわれは手法の直前の文脈と直後の文脈とが手法を軸として何らかのかたちでシンメトリを構成しているケースを想定することができる(2)。その場合,手法の対照効果は,シンメトリの存在によってより強力なものとなろう。同じようなことが小文脈と文体要素についても言える(3)。対照要素を直前の文脈と直後の文脈とが両側から支えるかっこうになることは大いにあり得るのだ。

 そこで,筆者は,リファテールによる文脈のこの種の限定を解除し,その代りに前文脈と後文脈という二元的解釈を思いついた(4)。もちろん,小文脈と大文脈との区別はそのままである。後文脈の概念が生きてくるのは,先の段落で示したような,対称と対照が重なるケースだけである(5)。対称による対照効果の増強という点では,後文脈の考慮は大文脈の吟昧と変わらないが,後文脈は,前文脈と同じように,文体要素と対照をなすことができるという点で,小文脈に近い。つまり,後文脈の考慮が必要なケースでは,前文脈と文体要素と後文脈とのどの2要素にも二元対立がみられ,そうしたなかで,なお,3要素が緊密に一体化しているように思われる。後文脈の概念を必要としない普通の対照と同じく,それは,構造が単純で作品のなかから比較的ひきだしやすいという利点をもっている。それに何よりも,このデル夕構造は,二重の対照効果の増強を通して,大文脈の吟味なしに一気に文体としての浮きぼりをかたちづくることができる(6)。それはいわば,読者の注意力をほとんど要しないで,ある要素に注意をひきつけずにはおかない立体文字のようなものである。

 リファテールは,手法の後の文脈をはじめから無視してかかったために,この種の堅固なデルタ構造の存在に気がつかなかったのだろう。筆者がそれに気づいたのは,プルーストの文体に関するミィーとシュピッツァの研究を通してである(7)。

 拙著でも触れた通り,ミィーはプルーストの文章のなかに二元化の意図を認めていた。2要素の重ね合わせの傾向をである。彼は『プルーストの文章』のなかで,この二元化の項目に20数ページもあてている(8)。普通に考えれば,二元化は文に安定した秩序を与えそうだが,それはまた枝葉の繁殖を意昧している。こうして,ミーは文の拡張による動きの力強さのようなものを二元化の特徴のなかに読みとろうとする(9)。しかしながら,筆者には,この種の二重構造はそれ自体中心的な文体特性であるというよりも,むしろプルーストが好んで使う文脈のパターンのひとつとして解釈した方がよいように思われる。この解釈には当のリファテールも賛成してくれるにちがいない。なぜなら,大文脈のパターン認識はすべてこの種の要素の連続性を通してなされるからである。同じような理由で,ルーリアがプルーストの文体の第一特色として考えた収斂も,その前身である列挙も,筆者はそれ自体表現性を持つものであるとは思わない(10)。それらが文体としての浮きぼりを構成するためには,何らかの対照が

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必要だと考える。2要素であろうが,3要素であろうが,それ以上であろうが,それらの言語要素の積み重ねが,そのまま文体としての有効性をもつとは限らないのである。

 他方で,シュピッツァはさすがにその点に気がついていたように思われる。プルーストに習慣的な三つの形容詞の列挙について彼は次のように書いている。「この種の三元体は、中央の要素を他の2要素が両側から対称的に支えるという構成をなすことで,決定的なものとなる。とはいえ,これらの三つの形容詞(もっと一般的には三つの限定辞)は類義語ではないことに注意しよう。それどころか,それらは可能なかぎり異なった領域から借りてこられたものである(11)。」このように言うとき,三元体は,まさしく筆者が先に規定したような「前文脈/文体要素/後文脈」というデルタ構造そのものである。シュピッツァは,プルーストの文章をドーデやゴンクールといった印象主義作家のそれとして主に解釈していたので,この種の三元体を対照効果の面からとらえることができたのである(12)。この点でも彼は構造文体論の走りである。しかし,もちろん彼は構造の概念にも文脈の概念にも到達していない。

 このようにして,リファテールによる文体文脈の概念を修正したあとで,なお対照の概念そのものをもう少し煮詰める必要がある。

 修辞法の使用が対照を生むとは限らないとしても,作品のなかの対照は,おそらくはほとんどすべて,旧修辞学の膨大な遺産の存在を通して説明可能であろう。そんなわけで,個々の修辞法と対照との関係について一般的な考察を行なっておくことは有効である。

 その使用がそのまま対照効果を生む修辞法のなかで,もっとも効果的な技法は,撞着語法ないしは矛盾語法と呼ばれるものであろう。逆説と呼ばれることもあるが,撞着語法とは,要するに,意味の矛盾する2語をつき合わせることで,複雑な感情を表出したり,通常の論理的な語法では表現し得ない真理を表現しようとするものである。また,これと似たような強い印象効果を生む修辞法に,濫喩と呼ばれるものがある。これは,たとえるものとたとえられるものとが似ても似つかないような比喩であり,隠喩を極端にしたものである。誤用といってしまえばそれまでだが,もしその種の逸脱が結果的に読者にある複雑な現実を呈示することになれば,それはもうりっぱな文体手法なのである。プルーストはと言えば,彼は作品を通して目に見えない複雑な現実を何とか表出しようとする作家であったように思われる(13)。何人かの研究者が「不正な語」と呼んでいるものも,この種の逸脱である(14)。おそらく,プルーストの文体研究の流れをみた場合は,当初は誤用として処理されたものが作品の価値の上昇につれて文体手法として解釈されることは多いのではなかろうか。初期の研究者たちは,『失われた時を求めて』に多くみられるこの種の逸脱をともすれば誤用と見なしがちだった。たとえば,1948年に初版が刊行された『マルセル・プルーストの文体』のなかで,ムトンが「プルーストの言語のなかには不適切なものがいくつか見られる」というとさ,そこにはまだ彼の文体に対する無理解がある(15)。はっきりそれとわかる誤殖はともかく,これまで誤用とか不正確とか不適切とか言われてきたものについては,文体論の立場から再評価

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する必要があろう。何度も言うように,ある逸脱が誤用であるか文体手法であるかは,目に見えない因果関係が対照効果の存在を通して読者の目にあきらかなものになっているかどうかによってある程度判断がつくのである。

 ところで,撞着語法と濫喩は,その印象効果の大きさからみて,双壁をなす対照法であるが,この修辞学でもかなり一般的な意味をもつ対照法は,リファテールや筆者の考えているような対照の概念と完全に重なり合う性質のものではないように思われる(16)。とすれば,次にこの修辞学的な対照法はどの程度われわれの対照の概念をカバーするかを明示する必要がある。

 対照法と対照。対照法とは,一般に,意味や用法の異なる2つ以上の語句を文中で対照的にならべる方法である。「生ける屍」といった言語化した撞着語法のタイプから,「山紫に水清し」といった対句形式まで含まれる(17)。したがって,対照法はかならずしも対照を生むとは限らない。むしろ,対置法といった方がよいかもしれない。また,対照法では,一対になった語句であれば,いくらならべてもよいことになるが,われわれの対照では,その構成要素は純粋に一対のものである。しかも,後者においては,それぞれの要素は,語の一部でも語句でも節でも文でも総合文でさえもあり得る。そんなわけで修辞学的対照法とわれわれの対照との相違に注意されたい。

 語感が対照法とよく似た技法に反語法というのがある(18)。普通には,皮肉のかたちで示されることが多いものである。反語法もまた,かならずしも対照をなすとは限らないが,それは対照に直結した手法である。たとえば,プルーストは,作中人物たちのひとりひとりに,読者には奇矯に思われるような語らせかたをすることによって,彼らの言動に滑稽味を与えると同時に,時代のスノビスムや階級制度そのものを風刺したり,フランス語そのものに対する不満をひそかにぶちまけようとしていた(19)。つまり,この場合,奇矯な語らせかたとは,さまざまな言語手段を用いて作者の実現する対照であり,それによって,皮肉や風刺や機知やユーモアやパロディーといった一連の意図は,いわばコード化されるわけである。ところで,普通に皮肉といえば,ある人物の言動について,心中では本当のことを言って相手をやりこめたいと思っているが,上下関係や利害関係のために,それがかなわないようなときに,そうした暗黙の中傷が逆に過度の賛辞といったかたちをとるものである。あるいは,相手の人となりがりっぱに見えるような場合に,ねたみから本当の気持ちを伝えるのがしゃくにさわるので,逆に必要以上にこきおろしたりするケースも,この種の反語法である。しかしながら,たとえば,プルーストの反語法というとき,それはこのようなかたちでの皮肉を意味するわけではない。むしろ,それはユーモアか風刺の概念に近いものなのである(20)。このように,反語法は形式よりは意味内容の領域に深くかかわってくる修辞法であるから,実際上は,純粋に形式的な他のさまざまな修辞法に寄生することが多いという点に注意せねばならない(21)。

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 その他の修辞法と対照。ここでは他のすべての修辞法を検討する愚は避けて,とくに,プルーストのテクストのなかで問題となったものだけに限定しよう。過去の諸研究が集中しているのは第一に隠喩や換喩のたぐいであるが,これらの文彩は,プルースト研究では,かなり広い意味で,時には誤って用いられる(22)。そのために,これらの語の使用は,プルーストの文体分析のなかでは,混乱をまねきかねないように思われる。つまり,隠喩の代りに濫喩や誇張法などを,また換喩の代りに提喩や換称法や代換法などを積極的に使おうというわけである(23)。兼用法とくびき語法,迂言法と緩叙法といった修辞法もよく研究されている(24)。また,列挙法関係については,すでに述べたように,プルースト研究では,ルーリアによって提案された収斂という概念が語句の列挙や節の積み重ねを示すものとして一般的なものとなっている。収斂を含めて,一般に反復法や列挙法のたぐいは,文体論の立場からみれば文脈を構成することが多い(25)。反復法のなかでも,類語反復と冗語法はその典型である。頭韻法や頭語反復や異義復言や小辞反復などは,反復法のなかではいくぶん表現的なものとなろう(26)。なお,プルーストの文体特性のひとつだとされている遅らせは,修辞学では分離法に対応している(27)。分離法は,漸層法や交錯配語法や予弁法と同じく,かなり効果的な文体手法となり得る(28)。

 ここで注意すべきは,そこでは,リファテールが言っている意味での大文脈の吟味は行なわれないということだ。そこでは,あくまでも,対照形式の分類が問題となるのであり,仮にそれが文全休としての浮きぼりをなしていても,そのとき力を貸した修辞法はそれが対照形式からどうしても切り離して考えることができない場合のみ考慮されるわけである。それは,たとえば,先のデルタ構造のように,形式が単純で,しかも,諸要素が緊密に結ばれているケースである。そこでは,文体効果からみて効率の高いもの,すなわち,対照や注意力を必要としない浮きぼりのように,最小限の形式で最大限の印象効果をねらったものだけが問題となるのである(29)。この点については,あとで詳述する。そんなわけで,間隔をあけての意味の照応(しばしば,同時に換喩的で隠喩的な)などは,最初から問題にしていないのである(30)。

 ところで,このように,修辞法を文体的な対照効果という観点からとらえ直すということは,ある意味で,文語修辞学の立場をすてることでもある。筆者が,文学的テクストを問題としながらも.そうした立場をすてて,むしろ雄弁術の方に近づこうとしているのには,次のような理由がある(31)。まず第一に,対照もしくはパッと目をひく浮きぼりだけの分析・分類は作品の文学性という観点からみれば不十分きわまりないものだからである。文学牲の評価がテクストではなく,言語のレベルの分析だけでなされるとすれば,それはナンセンスである。実際には,形式は内容と切り離して考えることはできないのであり,一文学作品の文体をまっこうから論じるためにはやはりテクストのレベルの十分に広い文脈の吟味が必要なのである。それでも研究者が便宜上,個々の作品を文学ないしは芸術としてアプリオリに解釈することをやめて,それをことばのモデルとしてとらえるならば,こうした不都合は避け

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られるだろう。この観点から『失われた時を求めて』をながめたときに,われわれは作品の基調をなしている気ままではあるが洗練されたおしゃべりのリズムに目を向けざるを得ない。なぜなら書きことばとしてのプルーストの文章は不自然に長すぎて,どうしても読者泣かせの悪文だからである。およそ読者に過度の注意力の行使を強いるような文章は,それが独創性として正当化されるとすれば,それは純文学の領域だけに限られよう。そんなわけで,プルーストの文章は見習うべき書きことばのモデルにはならないように思われる。ところが彼の文章を彼がサロンその他の場所での話じょうずな貴族や社交人たちとの出会いを通して次第に身につけた話術のたまものとして解釈すれば,われわれはその文章の奇矯な長さにも納得がゆく。この点については,サロンで彼が作品の何節かを朗読するのを聞いたり,彼と会話をかわしたりしたプラントヴィ-ニュの重要な証言がある(32)。それによれば,普通に長いものと思われているプルーストの文章が,彼の朗読のおかげで,書かれたそれを読むときよりははるかに短く感じられたというのである。それは,彼が適当に区切って発音したり,声の調子を変えたり,ある語を強調したりしたからであろうが,そうした口頭の句読法は,どのような印刷句読記号によっても再現できないものであったと,プラントヴィ-ニユは証言しているのだ。この事実は,『失われた時を求めて』の文章が基本的には話しことば的であるという考え方を是認させるに足りるものである。実際,クレミューも言っているように,プルーストの文体の出発点となっているのは「大ブルジョワジーや貴族たちのパリのサロンの話しことば」なのである(33)。

筆者が文学性の探求をやめて,話術のほうに向かっている二番目の理由は,直接に対照の概念とかかわっているだけに,もっと重要である。話しことばでは,書きことばほどの複雑な構成をとれないこともあって,一気に人の心をとらえることが問題となる。それだけに会話(とくに社交的会話)では,印象効果の面からみた効率が何よりも優先される。ある種の純文学のなかにあるような,この効率を無視した相手に多大な精神的負担を強いるような話し方は,そこでは,断絶に直結している。かといって,ニュースの報道やある種のお知らせのように,ただ意味がわかればよいという程度の話しかたは,無味乾燥につながる。そんなわけで,会話では,話し手は,必然的に,話のなかに聞き手が注意しなくても自然にその注意を引きつけずにはおかないような刺激をちりばめようとする。もちろん,内容のおもしろさが相手にとって刺激になることもあろうが,ここで筆者が問題にしているのは,仮に大した内容でないものでも注意をひかずにおかない形式上の工夫のことを言っているのである。ところで,プルーストにあっては,人との対話のなかでみせる,即座に人の心をつかむ最大の形式上の工夫は,どうも筆者には対照であったように思われる。その根拠として,また先のプラントヴィ-ニュの証言をひさ合いにだそう。『マルセル・プルーストとともに』という回想録のなかで,彼は次のように書いている。「プルーストの会話の大きな魅力のひとつは,その即席の不協和音のなかにあった。この光と影をつき合わせる遊びの連続は,対話者を魅

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惑的に不意をつかれることへの期待のなかにいつまでも残したものだった。それらの驚きは,直喩や隠喩といった比喩ないしは言い回しの迂回を通して待ちわびていたものだった。彼は,われわれを,自分の歌うような声のビロードのようにやわらかな波のなかに,魅惑的な隠喩の小道のほうへいざなったものだった。そして突然,いじわるそうにほほえみながら,一本の挿入節という名のくいを打ちこむ。それによって,彼は,自分の飛躍をもたらした大言壮語に手を加え,優雅さは変わらないが,もっとひかえめな表現のほうへと降りていったものだった。いわば,こちらの表現は,それまでの大言壮語を少々うぬぼれ屋な大きな兄貴だとみなしていて,彼と一緒にこの仕方のない兄貴を笑ってくれと誘っているように思われた。あるいは急に,考古学者か建築家か画家か細工師か彫金師のような正確さで,彼の過敏な感性が現実の事物と物理的に緊密に結びついた職業用語や専門用語に実際満足していることを示そうとしたものだった(34)。」すこし引用が長くなったが,この証言はプルーストの話しことばの対照形成的な性格をはっきりと示している。

こうして,効率文体論とでも呼べるような研究の可能性が,リファテールの文体理論の拡大解釈とプルーストの文章の吟味のなかから生まれてくる。それは,したがって,文学作品の特定の一節の文体だけをその対象とする。この場合,文学作品とは,一見して高度に修辞的な配慮のなされていることがわかる書きものである。文体とは,通常の論理的な語法や統辞法では表現しがたいような複雑な現実を端的に表現するための対照である。それは,驚きと納得,多かれ少なかれ驚嘆を読者に与えるものでなければならない。もし文体をただ規範からのずれだとみなせば,それは単なることばの遊びか誤用から区別されない。古典修辞学や『一般修辞学』は,この種の奇形学か病理学的な探求に直結しているように思われる。また,形式批評や構造文体論は,大なり小なり,閉じた体系としてのテクストの有効性を論じるものであるから,そこでは,文体は,単なる規範からのずれではないとはいえ,今度は文学性という実にやっかいな間題をかかえこむことになる。もちろん,筆者は文学性の存在を否定するものではない。ただ,文体の実用主義的な解釈を成立させるために,作品の文学性を便宜上,無視しようというわけである。作品の芸術性を無視して,なおも残るもの,なおも研究に値するものとは,本来的な意味での修辞法,つまり,人の心を動かす技術としての話術なのである。かつての雄弁術がそうであったように,いくら内容が深くても難解なものはなかなか多くの人の心をつかむことができないから敬遠される。短ければ読まれた小説が長いために読まれないことがある。平明であればおもしろく読まれた詩が晦渋であるために放棄されることがある。文学でも詩学でもなく,こうした本来の修辞学に立ち返るとき,われわれは,まずはじめに,弁論術が想定したような一般大衆,平均的な読者というものについて考えざるを得ない。そして,このように考えるとき,効率文体論の構築のための諸条件は,従来の修辞学や文体論にはない特性としてあらわれてくる。たとえば,詩は,一般に小説以上に高度の修辞的な配慮がなされているが,一語一語の詩句にこめられた内容が深すぎ

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て,読者の驚きは大きくても,理解・納得するのに多大な時間と労力とを要するのが常である。場合によっては,最後まで意味が不明のままになることもある。もちろん,興味のない読者には,多くの詩は,わけのわからないものとしてうつり,また,不可解なままで終わる。これは詩の本質が際限のない共示であってみれば当然であろう。しかし,効率文体論の立場からすれば,詩は短いにもかかわらず,効率的ではない。小説も,全体としてみる限り,長さに難があるようだが,効率文体論では,その一節一節を分けて考えるので,小説のほうはそれほど問題がない。リファテールは,文学作品一般にポエム(詩および詩的散文)という名称を与えているが,この種の文学性は無視される効率文体論では,詩作品は,けっきょく,二次的な存在でしかない。

効率文体論は,対照が生じる条件の分類をめざすものであり,言語表現による効率的な印象効果の追求を行なうものである。ポスターやCMのように,ほとんど瞬間的に人の心をとらえる強調が問題となる。この文体論は,多元的で複雑な現実や真理をより経済的にしかもより確実に相手に伝え得るような効果的な言い方を,おしゃべり上手な作家の作品という話術の教本を通して探求しようとする。「にが笑い」や「生けるしかばね」やbourru bienfaisant(一見無愛想だが心の優しい人)のような慣用となった撞着語法をみればわかるように,修辞学的な諸要素のなかで,言語学にとって真に重要なのは,この種のすぐに読者が納得できるような対照なのである。撞着語法ばかりでなく,濫喩や誇張法や対照法や逆説や反語法なども,この観点からみて,それ自体高い文体的な可能性を秘めた修辞法であるにちがいない。

このように,効率文体論における文体とは,表面的には不合理に見えるが深いところで真実を暴露するような印象的な書きかたである。逆に言えば,まじめな存在理由(ことばのあそびではない)を備えているというだけで,それが何らかの言語規範からのずれであることには変わりがない。表面にあらわれるのは,やはり異常性なのである。これには形式規範(文法規範)にもとづく逸脱と意味規範(グレマスはこれをイゾトピーと呼ぶ)にもとづく逸脱とがある。前者では,たとえば,フランスの象徴主義作家や印象主義作家の特性とされる,場ちがいな前置詞や接続詞の使用などは,リファテールも認めているように印象効果満点であろう。後者については,われわれはそれを最近の連想記憶術の考えかたと関連づけて考慮することができる。普通の人間は,日常生活に慣れきっていて,そのリズムを変えないような小さな出来事には関心を示さないから,それらの出来事はすぐに忘れられる。しかし,現実にしろ,虚構にしろ,一瞬そのリズムを狂わせるような場面は,その脳裏にこびりつくものだ。連想記憶術は人間のもつこの普遍的な性質を利用する。印象効果を高めるため,相手に覚えさせようとするものを,たとえば,血なまぐさい連想を通して,心に植えつけようとする。ぺンで目を突く,ナイフで耳をそぐ,ハンマーで頭を割る,といった風にである。ある種の誇張法や濫喩には,これと同じような効果があるように思われる。たとえば,眠りにつくの代りに,「ベッドのなかに理葬される」。においにまみれるの代りに,「においの鳥もち

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でべタベタになる」。キスをするの代りに,「キスの針をちくりと刺す」(35)。こうして,最初の例では,「このまま,眠るのがいやでいやでたまらない気持ち」が,二番目の例では,「においがこびりついて,臭くてかなわない様子」が,また,三番目の例では,「サディスティックなうずくような性愛」が,効果的に示されている。何でもないような小さな出米事でも,異常な行為や状況と結びつけて考えられると,かなり印象的なものになることができるのである。

(1)contrasteの訳語は対照,対比。

(2)便宜上,この種のシンメトリと結びついて浮きぼりをなす対照形式をデルタ構造と呼ぼう。この文体構造を図示すれば,以下のようになる。

文体素

/ \

(対照)(対照)

/ \

前文脈素一(対称)-後文脈素

(3)リファテ一ルにとって,文体手法は,小文脈と対照形成要素との二元体であることに注意されたい。

(4)この二元的解釈は一連の構造主義的な二項対立の最後に加えられるべき性質のものである。

(5)この種のデルタ構造の存在に,筆者が気づいたのは,やはりプルーストの文章の観察を通してである。『失われた時を求めて』の有名な冒頭の一節が,この種の浮きぼりで始まっていることは注目すべきである。

(6)後述のように,筆者は,何よりも印象効果からみて効率的なもののなかに文体価値を認める傾向にある。

(7)cf.Jean MILLY, La Phrase de Proust, Larousse, 1975, 224pp.; Leo SPITZER, Le style de Μarcel Proust, Dans: Etudes de style, Gallimard, 1970, pp.397-473

(8)cf.J.Μilly,op.cit.,pp.164-87

(9)<Mais faut-il voir dans l'origine les developpements binaires un principe d'ordre, c'est-a-dire de limitation, alors qu'ils sont plutot a l'origine de la proliferation des embranchements de phrase? Ils nous paraissent au contraire relever d'une dynamique de l'expansion. En effet, chaque terme d'une, phrase semble en appeler un autre qui le renforce, le developpe, l'enrichit, le complete, ou nuance, le restreint, lui fournit un contraste ou un comparant,bref,entretient avec lui un rapport simple, du type de ceux qui associent le concret a l'abstrait,le particulier au general, la cause a la consequence, le proche au lointain, le naturel a l'imaginaire,etc. C'est une dynamique de la perpetuelle mise en rapport.>(ibid.,p.165)

(10)ルーリアによる収斂の概念については,拙著『プルーストの言語批評』(駿河台出版社刊),pp.253-8を

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参照されたい。

(11)L.Spizer,op.cit.,p.409

(12)この印象主義的な見かたは,シュピッツァがクルチウスから受け継いだものである。また筆者が前掲書の付録のなかでその一端を示したのも印象主義作家としてのプルーストであった。

(13)筆者の前掲書,p.221を参照。

(14)mot injuste.たとえば,L.D.Theszが,彼女の博士論文,「マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』における反語法の文体手法」の第5章のタイトルとしてこの不正な語を採用するとき,それは緩叙法とか誇張法とか題された他の章とそぐわない誤用のニュアンスをどうしても帯びているように思われる。cf.L.D.Thesz,Stylistic devices of irony in Marcel Proust's A la recherche du temps perdu.Univ.Microfilms,1975,136pp.

(15)Jean MOUTOΝ,Le style de Marcel Prosut,Nizet,1969,p.26なお,オブライエンは,この種の誤用と対照法との関係について,次のように書いている。

Most writers on style,particularly on French style,have praised the judicious use of antithesis and warned against its abuse. Lanson,for one,insists that the shock of ideas in opposition must reflect what took place in the author's mind,whereas <l'antithese de mots est toujours et partout detestable> (Principes de composition et de style,pp.212-213) Antoine Albaret in La Formation du style par l'assimilation des auteurs(Colin,1902,p.223) likewise castigates the purely verbal contrast,adding: <C'est cet abus qui a disqualitie l'antithese. On la confondue avec le faux esprit, et c'est pour cela que tand d'ecrivains la de conseillent, au lieu de reconnaitre qu'elle est, malgre ses abus, un procede fondamental de style, l'art meme de feconder sa pensee.> After quoting Beccaria's statement(Recherches sur le style,Ch.iv) <ァl ne faut pas faire contraster les mots entre eux,ni les mots avec les choses; il faut que les contrastes soient entre les idees;>(J.Ο'Brien,op.cit.,p.747)

(16)リファテールの論述のなかでは,対照の概念は,小文脈の境界画定を通してしか規定されていない。

(17)なお,対句はもともと中国文学の修辞法だが,そこでも,対句は初期には反復法の一種であった。それが次第に2句の対照効果に重点が置かれるようになったことに注意されたい。

(18)反語法antiphrase,ironie

(19)筆者の前掲書,p.38を参照。

(20)ミュレルは,「『失われた時を求めて』における語りの声」のなかで,このユーモアに近い反語法と,風刺に近いそれとを,はっきり区別しているように思われる。cf.Marcel MULLER,Les Voix Narratives dans La Recherche du Temps Perdu,Droz,1965,p.81

(21)内容の滑稽味と形式の意外性との結合は,印象効果の面からみて効率的であるにちがいない。

(22)筆者の前掲書,p.269を参照。

(23)濫喩catachrese,誇張法hyperbole,提喩synecdoque,換称法antonomase,代換法hypallage.

(24)兼用法syllepse,くびき語法zeugme,迂言法periphrase,緩叙法litote.

(25)収斂convergence,反復法epanalepse,平行法parallelisme,列挙法enumeration

(26)類語反復synonymie,冗語法pleonasme,頭韻法aliteration,頭語反復anaphore,異義復言antanaclase,小辞反復polysyndete.

(27)遅らせretardement,分離法disjonction,註(15)を参照。

(28)漸層法gradation(漸昇法climax十漸降法anticlimax),交錯配語法chiasme,予弁法prolepse.交錯配語法については註(13)を参照。

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(29)グループμの演繹的な変換修辞学と対立さぜる意味で,この種の文体研究に対して「効率文体諭」どいう名称を与えることができる。もちろん,読者の推理によってしか判断できないような浮き彫りは,この時点では無視するという意味において,それは,リファテールの構造文体論とも明確に区別されるべきである。

(30)こうした伏線のたぐいを考慮に入れた形式批評は,ヌーヴェル・クリティックの得意とするところである。

(31)修辞学自体,はじめは弁論術であった点に注意されたい。実際,現代において再評価されているのは文語修辞学ばかりではない。たとえば,ペレルマンとオルブレヒツ・ティテカは,1958年に初版が刊行された『新修辞学』のなかで,弁論術関係の遺産のとらえ直しを行なっている。いずれにせよ,修辞学は,本質的には,人の心を動かす説得の技術に他ならないのである。cf.Ch.Perelman et L.Olbrechts-Tyteca,La Nouvelle Rhetorique,PUF,1958

(32)cf.Μarcel PLANTEVIGNES,Avec Marcel Proust,Nizet,1966,p.144

(33)Benjamin CREMIEUX,Du Cote de Marcel Proust,Lemarget,1929,p.48

(34)M.Ρlantevignes,op.cit.,pp.144-5

(35)<s'ensevelir dans le lit(M.Proust, A la recherche du temps perdu, Gallimard, Bibl. de la Pleiade, 1954, t.Ier, p.28): s'engluer dans l'odeur(ibid.I, 50): piquer un baiser(Ibid. I, 162).>

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