本稿は、とかく主観的な判断に頼りやすい修辞法の有効性の問題にアンケートの複数の回答者という多少とも客観的な規準を持ち込もうとするものである。それは、リファテールのいわゆる「原読者」の実践であり、チョムスキーの「理想的な言語の使い手」の想定にも似たものである。すでに、前者は、文脈=前後関係という、とりとめのない単位に対して、より具体的で、境界確定が容易な「小文脈」を、本来の文脈の意味に近い「大文脈」から区別していた。こうして、目立つ要素とそれを目立たせる要素を、対比形式として抽出することもできた(1)。それによって、隠喩に対する直喩の優位性や、対照法の基本的な性格がとりざたされるようになった(2)。
欧米の古典修辞学は、古来、比喩が成立する三つの条件として、次のものを挙げていた。1比較の正当性 2比喩表現の周知性 3比喩表現の新奇性 つまり、比較の第1項は人によく知られたもので、その第2項は奇抜な面白いものにする必要があり、しかも、それらの比較は誰の目にも妥当なものでなければならない、というのだ(3)。とかく目立つ要素のみに目が行きがちだが、過去の経験と伝統は、レトリックの判断にこうした複合的な評価が必要であることを教えてくれる。インパクトの大きさ、ユーモア・皮肉の加味、比較の妥当性。文脈はどのくらいの規模で文学作品の中から、切り取ってくればよいのか。自分が選んだ用例は果たして自分が考えるほど印象効果があるのだろうか。このような日々の率直な疑問に対して、アンケートが、ある程度、答えてくれるのではという思いは確信めいたものに変わっていった。
今回のアンケートは筆者の本務先3回生配当の総合自由科目「文化と言語と民族」の7回に渡って開講された古典修辞学に関する講義(平成8年度後期)の中で実施された。若者ことばとレトリックとの親近性を考えるとき、回答者が20歳前後の青年男女に限定されることは、決してハンデとはならないに違いない。しかし、年齢差による感じかたの違いはあるから、このアンケートのデータをそのまま誰もが共有できると考えるのは無理がある。そのような制限を念頭に置きながら、アンケートの説明にかかろう(4)。
実際の受講生はもう少しいたが、今回のアンケートが負担の大きいものであったために、最終的に以下の用例番号001-141まで答えて提出した学生は47名にとどまった。後、最後の141番だけ書き忘れた1名と、106番以降を放棄した2名を加えて、回答者を50名とした。内、21番までは、授業の初めの方で問題の修辞法の概説を行った上で即答えてもらい、残りのものは、一括して、7回の講義が終了してから、じっくり考えて答えてもらった。授業の単位の一環として、受講生の方にも真面目に答えてもらったように思う。ただ、用例の数が多すぎて、しかも、広い文脈を抜きにした一節の切り取りになっているので、その一節が当初にもっていた印象効果が少し損なわれてしまったのではという懸念は拭えない。目立つ要素も目立つ要素の連続の中では目立たなくなってしまうということがある。慣れっこになってしまうのである。実際、ある学生は提出したアンケートの最後に、このように書いている。「こんなに数が多いと"印象"の強いものも数の勢いに押されて薄れてしまいます。真剣に最後までやりましたが、正気な判断で出来ているかどうか少し心配です。」
アンケートは次の規準で実施された。まず最初に、意外さとか、斬新さとかいったインパクトの強さを問うのが先決であるため、印象度チェックを初めにもってきた。一読して印象的なものにはAを、印象的でないとすぐに判断されるものにはBを、そして中くらいの程度か、強弱がはっきりわからない場合はCを◯で囲む。さらに特にインパクトの強い例にはその用例番号に◯をつけてもらった(5)。その際、複数回答は可とした。以下の集計報告では、特に印象的な例に◯をつけた学生の総数を示す数字の前に*をつけてある。複数回答の中で最も印象的なもの(第28例)に◎をつけてきた学生が1名いた。
次に比較の妥当性のチェック。すぐに納得できるものにはa を、なかなか納得できないものにはb を、判断がつかなければcを◯で囲む。
最後にユーモアと皮肉度チェック。ユーモアが感じられるものにはi を、ほとんど感じられない場合はiiを、わからない場合はiiiを◯で囲む。また皮肉が感じられるものにはイを、感じられないものにはロを、わからない場合はハを◯で囲む。用例によっては、もう少し文脈がないと判断がつきにくいものもあるかも知れない。先の学生は書いている。「それから"妥当性"や"ユーモア"、"皮肉"というのは、その"文章"に含まれているかどうかを答えるのですか? 作者の意図に対して答えるのですか? 作中人物のセリフにこもった思いに対して答えるのですか?」もちろん、ここで、問題となっているユーモアや皮肉の判断は原則として、アンケートに示された短い文脈の範囲内で行うべきものである。しかし、作家や作品に関する知識や読書体験の有無が判断を左右することもあり得る(6)。なお、紙面の都合で用例の提示は多くのインフォーマントにとってインパクトの強かったものに限ってある(7)。
1「薩摩芋のようにいびつに赤肥りした大きな顔の端っこのほうに、飯粒のように白くくっついた小さな眼である」(上林暁『薔薇盗人』)対照法的直喩(8)
001-A32-B13-C05-a25-b12-c13-i34-ii09-iii07-イ30-ロ11-ハ09-*08
印象度も妥当性もユーモア度も皮肉度もすべて過半数もしくは圧倒的多数で、数値は大きな修辞効果の存在を示している。最初の例だから、インパクトが強かったということも少しはあろう。その肥え具合が「大食漢」を連想するためか、ふたつの直喩がいずれも食べ物に例えられており、文の平行性を保っている。そして、それを「大きな顔」と「小さな眼」の対照法的な配慮が補強する。「いびつに赤肥りした」のあたりに滑稽化の意図が感じられる。皮肉の度合も高くなっているのは、こうした主人公の盗賊に対する作者の揶揄の意図を皮肉ととったからであろう。特に印象的な例として本例にチェックしたある学生は、「人物の人柄・性格までもが伝わる」と選んだ理由を書いている。
2「よくけずった青鉛筆のようにとがった目つき」(プルースト『失われた時を求めて』)欧米人の青い目について言われている。叙述的直喩(9)
004-A37-B11-C02-a28-b14-c08-i21-ii28-iii01-イ11-ロ33-ハ06-*16
アンケート結果からすれば、印象度も妥当性もかなり高い、つまり、快い驚きと即座の納得というレトリックの基本的な性格を備えた用例であると考えられる。50人中16人が特に印象的な例としてチェックしている。本例について、先の学生は「こちらまで視線の鋭さが伝わり痛い」と書いている。まさにその通りである。ただユーモア度はそれほど高くなく、皮肉度は低い。だから、笑ったり、ほくそえんだりすることは少ないにちがいない。
3「男の眼差しは、まるで蠅取紙にくっついた蠅の足のように、リュフュスに釘づけになっていた」(ローラン・トポール『親友』)叙述的直喩
005-A33-B13-C04-a23-b17-c10-i30-ii18-iii02-イ21-ロ24-ハ05-*08
意外性とユーモアの存在を多くの回答者が感じとっている。それに対して比較の正当性の評価が相対的に低く、皮肉の有無はほぼ半々になっている。視線の釘づけとハエ取り紙との符合性にはすぐに納得するだろうが、視線とハエの足との比較は意外ではあっても、納得はすぐにできない。
4「やがて焼きたての腸詰のような唇があらわれると、その唇は、規定量をはるかに超えた笑いのために、思いっきりねじ曲げられるのだった」(安部公房『他人の顔』)直喩
006-A40-B08-C02-a24-b14-c12-i31-ii14-iii05-イ31-ロ12-ハ07-*05
すべての項目の数値がプラスの方向に高くなっている。50人中40人が本例に強いインパクトを感じている。しかし、その割に、特に印象度の高いものにチェックする項目では5人が◯をつけただけである。これは、ただ単に面白い表現だというだけではだめで、ことば遊びではなくレトリックとしての品位がそこに要求されていることの証拠となるかもしれない。しかし、くちびると腸詰めとの比較は意外性と妥当性と滑稽さといったレトリックの必要条件をすべて備えているといっても過言ではない(10)。
5「彼の顔には汗が雨のようにひどく井戸水のように冷たく流れた」(スティーヴンスン)平行法的直喩
015-A31-B18-C01-a26-b15-c09-i12-ii30-iii08-イ08-ロ36-ハ06-*06
皮肉もユーモアもこの一文からは感じられないが、印象度と妥当性については、高いプラス評価が得られている。ひとつひとつは、意外と陳腐な比喩であるかもしれないが、直喩をふたつ並べて表現することによって、効果を補強してあるように思われる(11)。
6「ゲルマント公爵は83歳というほとんど人が登りえない頂上に立っていて、もはや木の葉のようにふるえながらしかまえに一歩を踏みだせなかった」(プルースト『失われた時を求めて』)直喩
020-A33-B14-C03-a31-b07-c12-i17-ii26-iii07-イ20-ロ20-ハ10-*07
皮肉やユーモアはそれほど強くは感じられないが、印象性と妥当性の存在は強く支持されている。ここで83歳という年齢は今の年齢に直すと100歳前後かそれ以上にはなるだろう。実際、足腰が弱って「木の葉のようにふるえ」るという物言いは、意外だがすぐに納得できるものなので、レトリックの基本条件は備えている。
7「むし暑さがますますひどくなってくる。ぬるぬるしてきた。暑さを指でつまむことができるほどだ」(E.ギンズブルグ『明るい夜暗い昼』)直喩
023-A33-B15-C02-a21-b18-c11-i35-ii13-iii02-イ14-ロ29-ハ07-*10
皮肉度は低いし、妥当性の有無はほぼ半々の評価だが、印象性の高さとユーモアの存在については、圧倒的多数でプラスの数値になっている。ここでも「暑さ」という抽象的な事柄を「指でつまむことができる」という具体的な直喩に代えることによって五感に訴えるものになっている。
8「納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った」(小林多喜二『蟹工船』)直喩
025-A31-B15-C04-a21-b21-c08-i22-ii22-iii06-イ13-ロ26-ハ11-*06
皮肉度は低く、ユーモアと表現の妥当性は評価が半々で、印象度だけがかなり高くなっている。納豆色[=黄褐色]の濁った海に降るのであるから、「納豆の糸のような雨」という表現には心理的な暗い雰囲気も含めて、すぐに納得できるものがある。もう少し妥当性の高さがアンケートの結果に現われてもよいように思われる。
9「しめっぽいぼたん雪は、まるで飯粒のように、ところかまわずベタベタとはりつくので、十メートルごとに立ちどまって、こびりついた雪をかき落さなければならない」(安部公房『飢餓同盟』)直喩
036-A30-B17-C03-a33-b11-c06-i28-ii19-iii03-イ21-ロ22-ハ07-*03
皮肉の評価は半々であるが、残りの項目はすべてプラス評価がマイナスのそれを大きく上回っている。「ぼたん雪」も「飯つぶ」も踏むと「ベタベタとはりつく」という点で共通の性質をもっており、この対比にはすぐに納得するようにできている。
10「やせたキュウリのような色と形とを兼ねえたる顔の所有者」(夏目漱石『吾輩は猫である』)直喩・兼用法
042-A31-B18-C01-a32-b12-c06-i41-ii07-iii02-イ39-ロ06-ハ05-*04
すべての項目でプラス評価がマイナス評価を大きく上回っている。ただ「キュウリのような顔」というのと違って、「やせたキュウリのような色と形とを兼ねえたる顔」とすることによって、皮肉やインパクトは増大するように思われる(12)。
11「稲妻は黄色のフォーク。空にあるテーブルから、不注意な手が落したもの」(E.ディキンソン『ディキンソン詩集』)隠喩
047-A37-B12-C01-a34-b12-c04-i44-ii06-iii00-イ09-ロ31-ハ10-*14
皮肉はほとんど感じられないが、他の項目はすべて著しくプラス評価になっている。通常、詩の世界は、表現的ではあっても、わかりにくいものが多く、すぐに納得できないことが多い。そんななかで本例は、めずらしく、インパクトも強いが、妥当性もきわめて高いものになっている。なにか、神々が空の上でディナーをとっていて、雷神がふと雷という名のフォークを雲のテーブルから落としてしまう、そんな詩的なイメージを万人にあたえる好例である(13)。
12「十五年おきにやっと一つ、一幕ものかソネットをしぼりだす便秘作家」(プルースト『失われた時を求めて』)隠喩
053-A33-B10-C07-a25-b17-c08-i35-ii09-iii06-イ37-ロ06-ハ07-*11
すべての項目でプラス評価に大きく傾いている。妥当性の評価も過半数には達しているが、プラス・マイナスの落差はそれほど大きくないので、かなり表現的な面白い例だと判断される(14)。
13「ビールの良いところはね、全部小便になって出ちまうことだね。ワン・アウト一塁ダブル・プレー、何も残りゃしない」(村上春樹『風の歌を聴け』)諷喩(15)
060-A30-B20-C00-a35-b11-c04-i42-ii06-iii02-イ29-ロ16-ハ05-*08
すべての項目でプラス評価がマイナス評価を大きく上回る。かなりわかりやすいたとえで、しかもある程度表現的である。おまけに、50人中42人がそこにユーモアを感じている。回答者も、若いので、村上春樹の現代的な軽いノリのレトリックに共感をもつ人は多いように思われる。
14「九日目に新宿高校裏の青線でまた女とキャッチボールをした。二球投げて七百円ですんだ。安いと思ったら、淋病にかかったらしい、むずむずして仕事に差支える。医者に行ったら三千円とられて、結局高くついた」(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)
諷喩
061-A30-B16-C04-a23-b18-c09-i36-ii11-iii03-イ32-ロ08-ハ10-*07
こちらのほうも、すべての項目でプラス評価がマイナス評価を上回っている。ただ前の例と違っているのは、妥当性に対する評価が過半数を割っていることである。50人中23人がすぐに納得しているわけだから、表現が難解ということはない。 (16)。
15「夕日が中学生のように赤鉛筆でぐるぐる落書きした粗末なスカイ・ブルーの壁紙」(プルースト『失われた時を求めて』)擬人法
068-A30-B18-C02-a25-b18-c07-i22-ii25-iii03-イ08-ロ38-ハ04-*05
アンケート結果では、皮肉はほとんど感じられないし、ユーモア評価もマイナス評価がいくぶんプラス評価を上回っている。しかし、インパクトは強く、妥当性も過半数がプラス評価になっている。72例でも似たようなことを書いているように、擬人法はなによりも人身攻撃的な要素を省いた素朴で純粋なユーモアの手段を提供するものとして機能するように思われる(17)。
16「昼食の後、太陽は、土曜日と知ってか、空の高いところを一時間だけ多くぶらついていた」(プルースト『失われた時を求めて』)擬人法
072-A34-B14-C02-a27-b18-c05-i35-ii14-iii01-イ03-ロ43-ハ04-*11
皮肉はほとんど感じられないが、他の項目はプラス評価が大きくマイナス評価を上回っている。人を物か動植物に例えるのは多くの場合、揶揄や皮肉の意図を前提とするが、動植物や物が人にたとえられるのは罪のないユーモアの源泉となる。砂漠のオアシスのような、ほっとする好例である。
17「アハハハハ」と、老人は大きな腹をせり出して笑った。ランプのかさがびっくりするくらいな声である」(夏目漱石『虞美人草』)直喩、擬人法
074-A31-B17-C02-a31-b14-c05-i36-ii12-iii02-イ17-ロ30-ハ03-*02
アンケートの結果では、皮肉は強くは感じられないが、印象性も妥当性もかなり高く、50人中36人がユーモアを感じている。老人の笑い声にびっくりして、近くに置かれているランプの笠がはずれて飛んでいきそうな、ユーモラスな雰囲気を本例は演出している。
18「わがはいはこの際限なき談話を中途で聞き捨てて、ふとんをすべり落ちて縁側から飛び降りたとき、八万八千八百八十本の毛髪を一度に立てて身震いをした」(夏目漱石『吾輩は猫である』)誇張法
080-A38-B07-C05-a20-b23-c07-i34-ii13-iii03-イ11-ロ30-ハ09-*06
ばかばかしいほどの数字の正確さなので、妥当性の評価ではマイナスがプラスを上回っている。しかし、インパクトもユーモア度もきわめて高い。数字の無意味な正確さを文に与えるのは、漱石やプルーストの得意とするところで、効果的なユーモアの手段となる(18)。
19「ふと手にした鏡で、かさかさに荒れた顔のまんなかに、エジプトのピラミッドのように巨大な鼻のうす赤い斜めの隆起を認めて、思わずたじろぐ病人」(プルースト『失われた時を求めて』)誇張法
084-A30-B17-C03-a26-b15-c09-i25-ii22-iii03-イ22-ロ22-ハ06-*00
いくらなんでも「ピラミッドのように巨大な鼻」という言い方は誇張にすぎる。2項の大きさの違いが意外性を増大させる。マイナス・ポイントに思われることは、本人にとって心理的にかなり大きくとらえられることが多いので、このこの並外れた誇張法も、なんとなく納得させられる。それが妥当性評価の高さにつながっている。
20「隣の男が、翌日行ってみると、天地さかさまにしたような乱舞の中で、パイプオルガンのようないびきをかいて彼は眠っていた」(ルイ・ペルゴー『ボタン戦争』)誇張法
086-A30-B18-C02-a29-b13-c08-i38-ii10-iii02-イ26-ロ19-ハ05-*02
いびきの大きさを心理的に強調した誇張法的な直喩「パイプオルガンのようないびき」がすべてである。意外性も妥当性も皮肉もユーモアもそこに凝縮されている。
21「ぼくが、じゃ明日から来ますと答えると支配人は総金歯をにゅっとむいて笑ったので、あたりが黄金色に目映く輝いた」(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)誇張法
087-A33-B14-C03-a27-b18-c05-i34-ii12-iii04-イ29-ロ14-ハ07-*08
ここでも、すべての項目でプラス評価が圧倒的多数を占めている。別に真面目な動機づけがあるわけでもないが、ありそうでなさそうな最後の誇張法的な言い回しがなんともおもしろい。
22「髪の毛は前人未踏のアフリカのジャングルよろしくもじゃもじゃ生え茂り、その一本一本が上に横に斜めに東に西にと勝手気ままな方向に伸び、その上複雑怪奇に絡み合いもつれ合い、本当にライオンの一頭や二頭は潜み隠れていそうな気配だった」(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)誇張法
090-A40-B09-C01-a35-b09-c06-i39-ii09-iii02-イ23-ロ21-ハ06-*14
ユーモアが勝っていて、皮肉の評価が半々に分かれたが、驚きと納得というレトリックの基本は守られている。対比の立場からいうと、やや煩雑な叙述だが、最後の「ライオン」のユーモラスな誇張法がみごとに生かされている。
23「アッといってうしろを向いたら、もう結婚していたんです」「だれがアッといったの」この質問ほど津田にとって無意味なものはなかった。だれがアッといおうと、よけいなお世話としか、かれには見えなかった」(夏目漱石『明暗』)誇張法・直解主義
091-A32-B14-C04-a25-b20-c05-i31-ii16-iii03-イ26-ロ20-ハ04-*08
すべての項目でプラスの数値が得られている。ここでは最初の誇張法の効果を後の直解主義の物言いが補強している。直解主義とは比喩的な表現を文字通りに解釈することによって滑稽味を出したりすることをいう。
24「フランクフルト・ソーセージを両手いっぱいフライパンで炒めてみた。まさかとは思ったが、私が二本食べた他はぜんぶ彼女がたいらげた。重機関銃で納屋をなぎ倒すような、すさまじい勢いの食欲だった」(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)誇張法
092-A40-B07-C03-a33-b09-c08-i39-ii07-iii04-イ32-ロ13-ハ05-*06
どれも圧倒的多数でプラスの数値が出ている。かなり意外な直喩「機関銃で納屋をなぎ倒すような食欲」だが、一見誇張が激しいように見えるが、お腹がぺこぺこにすいている人物の食べっぷりが、さもありなんという妙な臨場感をもって描写されている点は、妥当性の数値の高さで確認できる。
25「叔父は三年後に腸の癌を患い、体中をずたずたに切り裂かれ、体の入口と出口にプラスチックのパイプを詰め込まれたまま苦しみ抜いて死んだ。最後に会った時、彼はまるで狡猾な猿のようにひどく赤茶けて縮んでいた」(村上春樹『風邪の歌を聴け』)美化法
112-A43-B02-C03-a31-b09-c08-i13-ii32-iii03-イ20-ロ21-ハ07-*06(記入漏れ02)
ユーモア度は低く、皮肉の有無は半々だが、インパクトはかなり強く、48名中43名が印象的だと考えた。納得度も高い。「体の入口と出口」は、普通なら「口と肛門」と表現されるところだが、ここでは人間というよりも建物を思わせる、現実から目をそらしたような控えめな言い方になっていて、かえって新鮮な感じがする。そしてその効果を「狡猾な猿のように」という世慣れた中年男性の性質と死病に冒された人間の最後の姿をうまく組み合わせたような直喩が補強している(19)。
26「一秒間に地球の回りをより多く回転する力は電流ではなく苦痛である」(プルースト『失われた時を求めて』)訂正
117-A30-B16-C02-a30-b11-c07-i19-ii23-iii06-イ17-ロ20-ハ11-*07(記入漏れ02)
アンケートの結果から、ユーモアと皮肉はそれほど感じられないが、インパクトはかなり強く、表現の妥当性もかなりある。この警句風の表現が多くの回答者に受け入れられているわけがわからない。苦痛を電気[的なショック]と同列に並べるのには、ある程度うなづけるが、普通、われわれが、「一秒間に地球を何回りする」かというようなことを考えるのは、光についてである。
27「おなじ新聞の、おなじところを、なんどもよむことがある。そして、シャクにさわることが書いてあると、うれしい。どうして、こう、バカなんだろうと、シャクにさわることを、いったり、書いたりしたやつを、ケイベツすることができるからだ」(田中小実昌『自動巻時計の一日』)逆説
129-A31-B14-C03-a25-b14-c09-i21-ii20-iii07-イ28-ロ15-ハ05-*03(記入漏れ02)
すべての項目でプラス評価がマイナスのそれを上回っている。ユーモア評価はほとんど半々であるが、それは皮肉の存在が支配的だからであろう。「ケイベツ」などがカタカナで示されていることも、皮肉な効果を強めるのに役立っているように思われる。
28「理知的なジュリエットなんて、炊きたての冷飯、痩せぎすの肥っちょ、見上げるような小男、前途洋々の老人、抜群の不成績、一匹狼の大群、何千何万という四十七士、傾国の醜女、不親切な人情家みたいなものだ」(井上ひさし『青葉繁れる』)逆説
130-A37-B09-C02-a25-b17-c06-i34-ii12-iii02-イ36-ロ06-ハ06-*16(記入漏れ02)
すべての項目で圧倒的多数のプラスの評価が得られている。奇抜で、面白くて、すぐに納得できて、皮肉な味わいも備えている、レトリックの好例である。ひとつひとつの逆説表現も傑作なのに、それが列挙というかたちをとることによって、大きな効果をあげている。列挙はそれ自体対比をなすわけではないが、このように、見飽きない程度のパターンを構成することで、効果的なものとなるように思われる(20)。
29「ダイヤモンドは人の心を奪うがゆえに、人の心よりも高価である」(夏目漱石『虞美人草』)逆説
133-A32-B14-C02-a36-b08-c04-i17-ii28-iii03-イ30-ロ14-ハ04-*11(記入漏れ02)
ユーモアの数値だけは低いが、他の項目はプラスの評価が圧倒的多数を示している。確かにユーモアは感じられないが、普通は、「人の心は宝石・貴金属には代えがたい貴重なものである」と言いたいものであるが、ここでは、皮肉な一面の真実を鋭く警句風にしてある。
30「むしの好かないやつが親切で、気の合った友だちが悪者だなんて、人をバカにしている。おおかた、いなかだから、万事東京のさかにいくんだろう。ぶっそうなところだ。いまに火事が凍って、石が豆腐になるかもしれない」(夏目漱石『坊っちゃん』)逆説
139-A35-B09-C04-a25-b14-c09-i30-ii14-iii04-イ39-ロ05-ハ04-*09(記入漏れ02)
有名な「山あらし」と「赤シャツ」とあだ名をつけられたふたりが問題となっている。ここでも、アンケート結果はすべての項目で圧倒的多数のプラスの数値を示している。一見親切な人が実は詐欺師であったり、ぶっきらぼうな人が意外と根が正直でやさしかったりすることはよくあることなので、この逆説自体はすぐにうなづけるものである。古典修辞学では似ても似つかない2要素の突き合わせ、あるいは極端な選択制限違反をカタクレーズ(濫喩)というが、この「火事が凍って、石が豆腐になるかもしれない」といった奇抜な物言いは普通はそれ自体ナンセンスでも、上記の逆説表現を誇張法的に補強したものだと
考えれば、納得がゆく。濫喩が効果的に働いた例として記録されうる。
以上でアンケートの集計結果の分析を終わる。紙面の都合で、分析は、原則として印象性の評価を高くした回答者の数が30名を越える用例に限ってある。実際には、そんな風に割り切れるものではなく、もともとこれらの諸例は筆者が効果的だと考えたものを集めてきたものだから、回答者はその中で相対的な判断をくだしたまでで、かれらがあまり問題視しなかったからといって、それが修辞学的に無効な例であるとは限らない。実際、分析を加えなかったものについても、たびたび、なぜこの例が回答者の印象に残らなかったのかはっきりしないものが存在したことをことわっておく。
集計結果の分析のなかで、価値判断の大きなバロメーターとなったのは、おなじように数値がプラスに大きく傾いているように思われるケースでも、印象性か妥当性、皮肉かユーモアのいずれかの項目のプラス・マイナスの落差が小さい場合には、それによって、表現性の大小などの区別が可能になることだ。そのようにして、一見、表現的な2つの例の間で、程度の差を設けることができる。これは、個人の判断では到底微妙な違いを数値化できないものだけに、平均的な読者の存在はとりわけ有効なものとなろう。
文脈の切り取りの問題については、やはり対比のための文脈、つまり小文脈の提示だけでは、不十分なことが多い。直接的な対比の部分のみの提示は、回答者の誤解を生みやすい。とくに、換喩については、もともと日常生活に溶け込んでいるものが多いだけに、それだけでは十分な効果を発揮せず、他の修辞的な刺激と組み合わせて使う必要がある。そのためには、『比喩表現辞典』などの文脈の切り取り方よりももう少し大きな文脈とともに提示することが必要である。不在の隠喩や諷喩についても、直接的な対比の文脈をもたず、より広範囲な前後関係を探るか読者の頭の中にある規範と比較することになるため、これも、通常の例よりは、大きめの切り取りが必要になる。不在の隠喩が印象的であれば、確実に妥当性は低くなり、なにか説明するものが別になければ、ただ奇抜な表現だということになってしまう。(岐阜聖徳学園大学助教授)
註
(1) 拙稿「文体的対照について」(『岐阜教育大学紀要』第30集1995)を参照。
(2)直喩は隠喩に比べて単純に見えるが「のような」などの比喩標識を備えていることで意表を突く比喩表現をもってきやすいという利点がある。拙稿「直喩研究の指針」(『岐阜教育大学紀要』第33集1997)を参照。
(3) 拙稿「直喩研究の指針」(『岐阜教育大学紀要』第33集1997)p.65を参照。
(4)こうした世代差や時代差は、新語・古語・若者語などを利用した修辞例の評価を困難にする。
(5)アンケート時の通し番号は各例のアンケート結果の冒頭に示されている。
(6)知識の有無や教養の程度が、また風俗・習慣の違いが本来の効果に気づかせないことも多い。たとえば、くびき語法などは基本語順の関係で日本語ではほとんど成立しない。
(7)用例は自分で見つけたものも多いが、印象に残ったもので、自らこれ以上の例を見つけられないと判断したものに限って、既存の『比喩表現辞典』やその他のレトリック関連文献から拾ってきたことをここでおことわりしておく。
(8)対照法では、対句のように平行した2要素のなかに対比をもちこみ、相互に目立たせるというかたちをとることが多いが、このときの対比のための文脈は小文脈としてきちんととりだせる。
(9)詩的直喩には、喩えるものと喩えられるものとの間に表現の落差を設ける手法と、ニュアンスを含む叙述を行なう手法がある。前者はロートレアモン、後者はプルーストに代表される。
(10)安部公房の作品には、共感覚を利用したような、日本人離れした濫喩ぎみの表現が目につく。詳しくは、谷真介『安部公房レトリック事典』(新潮社1994)を参照されたい。
(11) 『ジキル博士とハイド氏』で有名なスティーヴンスンは、創作活動における語句の選択にはフローベールのように神経質であったとされるが、そのため、作中の比喩表現は、印象的でしかも妥当なものが多い。チャーマーズ『スティーヴンソンの文体』(研究社1960)
や遠藤敏雄『R.L.スティーヴンスンの文体』(研究社1963)を参照されたい。
(12) 漱石は、『文学論』のなかでも「不対法」、つまり、表現に落差を設けることの重要性に気づいており、彼の文学作品は、その実践としてレトリカルな表現に満ちている。
(13)本例がわかりやすいのは、それがいわゆる現前の隠喩、つまり小文脈「稲妻」と修辞的な刺激「フォーク」とが共に表に現れているからである。現前の隠喩は直喩に近い。
(14)「便秘[した]」の原語は実際にconstipeとなっている。
(15)諷喩は、寓話的物語では作品全体を貫く技法であるが、一節の文体手法としては、隠喩の継続したものをいう。
(16)井上ひさしも、漱石のいわゆる「不対法」に似たバランスくずしを行なう。中村明『日本語の文体』(岩波書店1993)pp.310-3を参照されたい。
(17)人を物に喩える「擬物法」のタイプを擬人法から分けることがある。
(18)拙稿「プルーストと数字の誇張法」(『仏語仏文学』第14号1984)を参照。
(19)美化法とは、文字通り、直接的な表現がはばかられるような箇所で美的に表現するものをいう。中村明『日本語レトリックの体系』(岩波書店、1992)pp.232-4を参照。
(20)本例はもちろん、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の捩りであって、 オリジナルは次の通りである。「ああ争う恋、ああ恋しての憎しみ、ああ無から生じた有、ああ重い軽はずみ、真剣な戯れ、美しい姿の醜い取り乱し、鉛の羽根、輝く煙、冷たい火、病める健康、いつも覚めているほんものでない眠り」(シェークスピア『ロミオとジュリエット』)