今回は『失われた時を求めて』に見られる何らかの軽蔑的な意図で名前をはっきりと示さない用法を「軽蔑的な伏字」と名づけて,その諸例を形式的に分類したあとで,意味内容を見てゆくものとします.引用の指示はプレイヤードの巻とページの略号でなされています.さてアステリスクの使用に目を向けてみましよう.名前の代りにアルファベットを使わない伏字では第1例から第5例までのように3個の星印の使用が普通です.
1.Mlle ***(III,231)
2.amis ***(III,249)
3.comtesse ***(II,266)
4.M.de ***(II,537)
5.duchesse de ***(III,294[2度])
第6例では先の形式の異形として2個の星印が並んでいます.『ボン・ニュザージュ』によればアステリスクは参照記号としての使用を除けば「時に頭文字程度にしか知らせたくない固有名詞に代る1個か3個の星印」です.2個の星印は良い慣用ではないことになります.
6.prince de **(III,864)
また第7例では中断符が3個の星印の代りに使われています.中断符には先のアステリスクのような用法はありません.そのことから中断符は手書きが面倒な星印に代る簡略な形式として利用されているのだと考えられます.
7.prince de...(II,1119)
名前の代りにアルファベットを使う伏字では第8例以下のように大文字のXと中断符を組み合わせて使うのが普通です.この場合のXは頭文字ではなくて某なにがしにあたるものです.ここでも何らかの称号を示す語句は常に添えられています.それらは単なる性別や未婚・既婚の別を示すものであったり,仲間や家族を示すものであったり,爵位を示すものであったり,花形職業を示すものであったりします.それらの多くは高い身分を示す称号であることに注意せねばなりません.
8.monsieur X...(III,570)
9.M.X...(III,426[3度])
10.Mme X...(III,941[2度])
11.Mme X...(II,951)
12.M11e X...(III,914[2度])
13.ami X...(III,307)
14.collegue X...(III,329)
15.tante X...(II,196)
16.comte X...(II,1026)
17.abbe X...(III,529)
18.cardinal X...(II,478)
19.Dr X...(III,185)
20.specialite X...(II,324)
また第21例では例外的に伏字のxに中断符がついていません.
21.Lord X(III,864)
貴族の称号を示すdeのついたものも第22例以下のように多く見られます.
22.M.de X...(III,996)
23.prince de X...(II,536[2度],551-2)
24.duc de X...(I,21)
25.duchesse de X...(III,596)
26.marechal de X...(II,130)
ただし第27例と第28例については文脈からdeが単にofの意味で使われていることが確認されています.
27.ambassadeur de X...(II,665)
28.collegue de X...(II,1103)
称号を示す語句がつかないのは結局第29例と第30例だけであることから,称号の添加は軽蔑的な伏字の本質的な形式特徴であるように思われます.
29.X...(III,306)
30.Χ...(III,1026)
Xに等しいYは第31例から第33例までのようにΧとの対比のなかでしか使われません.XとYとの対比に導かれる伏字はその形式的な事実自体が何か十把一からげのどうでもよい存在として問題の人物を軽く扱っているような感じを与えます.
31.X...[...]Y...(III,1026)
32.Mme X...[...]Mme Y...(II,951)
33.M.de X...[...]M.de Y...(III,996)
中断符を導くX,Y,Z以外のアルファベットは第34例から第41例までのように頭文字の役割を果たします.『失われた時を求めて』のなかでは頭文字に導かれる伏字は一般に何度もくりかえされていることにご注意ください.そこには何らかの強調の意図が感じられます.
34.M.E...(III,917[4度])
35.docteur Ε...(II,642)
36.professeur E...(II,314[2度],64Ο-42[4度])
37.Mme G...(II,443[3度])
38.comtesse G...(II,443[2度])
39.ecrivain G...(II,206)
40.W...(III,630)
第41例では頭文字に導かれる伏字に中断符がついていませんが,中断符の欠如や星印の不足は伏字の効果とは無関係であるように思われます.
41.comtesse de M.(II,294)
最後に第42例から第49例までのように称号を示す語旬に形容詞や同格名詞のつくものも多く見られる点に注意せねばなりません.それも形容詞はほとんど常に名詞の前に置かれていることを考えると,フランス語では主観的で感情的な価値判断を示す形容詞がもっぱら名詞の前に置かれるだけに,そこには高い身分や職業に対する何らかの強調の意図が感じられます.それらの伏字に添加される形容詞のほとんどはプラスの意味をもったものであることにもご注意ください.それらが実は反語的にあるいは皮肉に使われているのを後で確認することになります.
42.le fameux professeur E...(II,314)
43.la fameuse duchesse de ***(III,294)
44.la charmante comtesse G...(II,443)
45.Mme X...charmante et droite(III,941)
46.l' excellent ecrivain G...(II,206)
47.notre venerable collegue X...(III,329)
逆に第48例では称号を示す名詞にマイナスの意味を帯びた形容詞がついています.したがってそこにははじめから軽蔑的な意図が感じられます.
48.la pretendue comtesse de M.(II,294)
また第49例では伏字に同格名詞がついています.ここでは貴族の称号を示すM.deに導かれる伏字が小麦粉の製粉業者を示すmeunierと並んでおり,そこには内容を吟味する前から何らかの軽蔑的な意図を感じさせずにはおきません.本例はちようど武士の身分を金で買って名字帯刀を許された江戸時代の日本の商人か農民のように皮肉な性格を帯びているのです.
49.M.de ***,meunier(II,537)
なお最後の例についてはプレイヤード版の編者註によれば.名前の部分は原稿では空白になっており,伏字の例ではないかもしれないということで,第50例は参考例として掲げるだけにしました.
50.cf.le jeune comte de (III,938)
形式特性の説明はこれくらいにして文脈を踏まえた個々の用例の内容を見てみましよう.叙述の順序としては先の形式的な分類から基本的な伏字形式だと考えられる星印かそれに等しいXと中断符に導かれる諸例から取りあげるものとします.なお問題の伏字は『失われた時を求めて』に60例前後現れる文体特性でありますが,本稿では紙面の都合で選ばれた半数以下の用例の簡単な吟味になることをあらかじめおことわりしておきます.
まず,貴族階級や僧職階級などの高い位階を示す称号に導かれる例を見てみましよう.
1.[...]<Que Lord X ou le prince de ** ne viennent pas redire ce qu′ils disaient hier,car je me suis tenu a quatre pour ne pas leur repondre: Vous savez bien que vous en etes au moins autant que moi.>(III,864)「X卿か**大公は昨日言っていたことをまた言いに来ないように,というのも私は彼らに『お前たちは少なくとも私と同様にあれ[=ホモ]だということをよく知っているはずだ』と答えないように懸命に自分を抑えているからだ」.問題となっているのはドイツびいきが昂じて「自分をドイツ人の仲間に数え,ドイツ人の敗戦を嘆き,倣慢な口を利く」シャルリュス男爵の不謹慎な言葉です.伏字は例文から皮肉を言いやすくするための操作だと考えられます.そこには高い身分をおとしめる軽蔑的な意図が感じられます.例文中のen etreは「性的倒錯者に所属する」ことを暗示する皮肉な符牒なのです.おまけに「X卿か**大公」という物いいは先に形式特性を説明したXとYとの対比のケースに似てくることに注意せねばなりません.つまりその対比の事実は彼らを十把一からげのどうでもよい存在に見せるということです.とくに選択を示す接続詞のouは二者のうちのどっちでもよいという性格を助長しているように思われます.
2.M.de Charlus commenca par m' apprendre que Mme de Villeparisis etait la niece de la fameuse duchesse de ***,la personne la plus celebre de la grande aristocratie pendant la monarchie de Juillet[...](III,294)「ド・シャルリュス氏はまずド・ヴィルパリジ夫人はあの有名なド・***公爵夫人の姪であることを教えてくれた.この公爵夫人は七月王政のあいだ大貴族のなかでもいちばん名高い人であった」.問題となっているのは身分の低い男と結婚したために貴族社会からのけものにされている気さくなヴィルパリジ夫人が有名な公爵夫人の姪であることを知った話者の驚きと疑いです.「有名な」という形容詞fameuseの存在にご注意ください.この形容詞が皮肉であることを証明するのは本例の後の文脈をなす次例です.
2a.Εt Doudeauville ayant dit: <Mme de Villeparisis>, la duchesse de *** lui repondit: <Cochon!>(III,294)「公爵夫人はドゥードーヴィル公爵に三人姉妹の話をして『誰がお好き』と聞きました.それでドゥードーヴィルが『ヴィルパリジ夫人』というと,ド・***公爵夫人は彼に『豚[=助平]!』と答えました」.伏字はcochonという不謹慎な言葉を先の有名な公爵夫人に語らせるための皮肉な操作だと考えられます.そこには高い身分をおとしめる軽蔑的な意図が感じられます.その証拠にこの言葉を公爵夫人の才気の印ととるシャルリュス氏に対して話者は直後の皮肉な注釈のなかでそれが大して気の利いた言葉でないことを示唆しにかかるのです.
「『公爵失人はかなり才気のある人でしたからね』と,シャルリュス氏はゲルマント家の人たちがよくやるようにこのspirituelleという言葉に重みをつけて発音した.しかし氏が公爵夫人の言葉に「才気がある」と思ったことにも私はべつに驚きはしなかった.人間には遠心的な傾向,ものを客観視する傾向があるために,他人の才気を味わう場合には,自分自身の才気に対する厳格さを放棄し,みずから考え出すことはいさぎよしとしないようなことでも,よく観察して大事に覚えておくものだということを,私はほかの多くの機会で気づいていたからである.」
3.Et si j' avais[...]le meme etonnement que le comte X...[...]a qui[...],je fis tourner la tete derriere lui pour voir de qui je voulais parler,c' etait simplement par manque d' habitude du vocabulaire[...](II,1026)「運転手が『お客さま』と呼ばれるのを私がきいたとき,ちょうど伯爵になってから1週間しか経たないX...伯爵が『伯爵夫人はお疲れのようですね』と私からいわれて,誰のことかと思いながら彼がうしろをふりかえって見まわしたときのような,そんな驚きを私がもったとすれば,それは単にそういう語彙の習慣に欠けているからであった」.問題となっているのはエレヴェータ・ボーイから自分の運転手を「お客さま」と呼ばれてとまどう話者の驚きです.伏字は例文から不自然な比喩としての性格を強調することで高い身分をおとしめるための操作だと考えられます.つまり運転手のたとえとして伯爵がかりだされるところに屈辱的な対比があるのです.「伯爵になってから1週間しか経たない」という皮肉な物いいにも注意せねばなりません.
4.La derniere d' Oriane,c' etait,par exemple,qu' ayant a repondre au nom d' une societe patriotique au cardinal X...,eveque de Macon[...](II,478)「オリヤーヌの最近のこととはたとえば,ある愛国団体を代表してマコンの司教の某枢機卿に返礼の手紙を書かねばならなくなったときである[...]むろん書きだしは「台下」Eminenceもしくは「猊下」Monseigneurであろうと思っていたところ[...]オリヤーヌの手紙は,みんながびっくりしたことには,「枢機卿殿」M.le cardinalもしくは「従兄弟殿」Mon cousinで始まっていたのである.前者はアカデミーの古いしきたりによる用法であり,後者は,聖職にある公子たちや,ゲルマント家の人々や,主権者たちのあいだで,おたがいが「聖なる尊い守護」のなかにあらんことを神に願うときに使われていた用法なのであった」.問題となっているのは手紙の書きだしにまで古めかしい言いかたを好むゲルマント公爵夫人の言語特性です.ここでも伏字は高い身分をおとしめるための操作だと考えられます.彼女の書きだしは昔は正しかったとしても今は結果的に失礼な書きかたになるからです.そこには僧侶に対する話者の皮肉が感じられます.
5.[...]l´ambassadrice de Turquie raconta que le grand-pere de la jeune femme[...]ayant invite M.de Luxembourg a dejeuner, celui-ci avait refuse en faisant mettre sur l' enveloppe: <M.de ***,meunier>[...](II,537)「トルコ大使夫人が語ったところによると,若妻の祖父がド・リュクサンブール氏を午餐に招こうとした折に,当人は封筒の宛名に「粉屋ド・***殿」と書いてことわったところ,祖父からはこんな返事がかえってきたというのだ,「おいでねがえなかったのを残念に思っています[...],と申しますのは,私たちはほんの少人数のつもりで,食事をとることになっておりましたのは,粉屋と,その息子と,あなたとでございました」.粉屋という呼びかたは,ラ・フォンテーヌの寓話の標題をもちだすための,あまりにも見えすいた前おきであつた[ラ・フォンテーヌ『粉屋とその息子とろば』,ろばが返事のおわりの「あなた」にあたる]」.問題となっているのは小麦粉の商いから莫大な富を手に入れた妻の祖父の家族的な午餐招待に対するリュクサンブール氏の失礼なことわり状です.そして,そんな手紙に痛烈な皮肉で答える義理の祖父の姿を伝える話者の眉をひそめさせたトルコ大使夫人の低級なつくり話です.伏字は例文から皮肉を言いやすくするための操作だと考えられます.貴族の称号を示すM.deと製粉業者を示すmeunierとの対比は伏字の軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
つぎに一般社会における高い身分や職業を示す称号に導かれる例を見てみましよう.
6.Aussitot M.de Vaugoubert[...]ne detacha plus ses yeux de ces jeunes secretaires,que l' ambassadeur de X... en France,vieux cheval de retour,n' avait pas choisis au hasard.(II,665)「『まあいいから,わかっていますよ』とシャルリュス氏は.無知な人に話している学者のような,物知顔でいった.とたちまちヴォーグーベール氏は[...],それがフランス駐在の名うてのしたたか者であるX...国大使が,かりそめに選んだわけではない若い秘書官たちであるとわかって,それらの若者から目を離さなくなった」.伏字は男色を暗示する「名うてのしたたか者」という皮肉な物いいからすぐに軽蔑的な性格を帯びてきます.例文中のcheval de retourには俗語で「常習犯」や「務所帰り」といったマイナスのイメージを示す意味があるのです.
7.[...]Il me semble pourtant que le Dr X... m' avait dit--autrefois bien entendu--que cela pouvait me congestionner le rein et le cerveau[...](III,185)「べルゴットはいろいろな医者にみてもらった.医者たちは彼に呼ばれたことを光栄だといい,病気の原因は大勉強家たる彼の長所にある(20年このかた,彼は何もしてはいなかった),過労にあるのだといい,恐怖小説は読まないように(彼は何も読んではいなかった),「生命になくてはならぬ」日光をもっと活用するように(彼は閉じこもりきりの生活のおかげで数年間,わりにからだの調子がよかったのである),もっと栄養をとるように(栄養をとるとからだが痩せ,かえって夢魔を太らせた)すすめた.[...]べルゴットは最初のうちみてもらった医者の一人に逆戻りしたが,この医者は機知がご自慢で,文豪の前ではことさらそれを見せびらかした.ベルゴットが『でもX...先生は--むろん昔のことですが--そんなことをすると腎臓と脳に充血をおこすかもしれんと,たしかおっしゃったようですが...』と持ってまわっていおうものなら.ニヤリと笑って人さし指を立て,『私は用いなさいといったので乱用せよとは申しませんでしたよ.むろん薬というものは.度をすごせば双刃の剣になるものです』と宣告した」.文脈の紹介が長くなりましたが,医者に対する話者の不信の程が対句になった滑稽な注釈のかたちで十二分にうかがえるものとしてあえて紹介の労をとった次第です.ここでは名前を奪っているのは大作家のべルゴットではなくて話者だということがはっきりと示されています.ベルゴットは相手の医師と会話を行っているなかでその先生の名前を口にしているからです.こうして伏字はいたずらに機知をふりまわす医師に対して話者が皮肉を言いやすくするための操作だと考えられます.そこには何らかの軽蔑的な意図が感じられます.
8.[...]on suivit le conseil d' un parent qui affirmait qu' avec le specialiste X... on etait hors d' affaire en trois jours.(II,324)「俗にいうところの,どんな聖人に身をささげたらいいやらわからない[途方に暮れる],そんな時期に立ちいたり,折から祖母の咳やくしゃみがひどくなったので,専門家X...の手にかかれば三日で切りぬけられると断言する親戚のある人の忠告にしたがった.[...].その専門家はやってきた,まるで風神アイオロスの皮袋のように,患者たちの風邪を細菌ごとそっくり詰めこんだ医療かばんをたずさえて」.問題となっているのは絶望的な状態に陥った病気の祖母を救うために噂の名医の治療を受けさせる話者です.「風神アイオロスの皮袋」云々という直後の皮肉な文脈から判断されるように伏字は医者への不信をおおっぴらに表明するための軽蔑的な性格を帯びているように思われます.
つぎに仲間や単なる性別などを示す称号に導かれる例を見てみましよう.
9.Songez que j'ai appris par lui que le traite d'ethique[...]avait ete inspire a notre venerable collegue X... par un jeune porteur de depeches.(III,329)「私は現代で最も豪奢な精神的建築物として以前から尊敬していた倫理学原論は,私の同僚であるX...老先生がなんと電報配達の少年からヒントを得て書いたものだということを.ご本人から聞いて知ったのですよ.もっとも畏友X...先生は,論を進めてゆくうちにその少年の名を明かすことは忘れている,これは遠慮なく指摘しなけりやいけません.先生はその点,フェイディアス[古代ギリシャ最大の彫刻家]よりは世間体を重んじたというか,それともフェイディアスより恩知らずであることを示したというほうがよいかもしれません.フェイディアスは,好きな競技者の名を,オリュンポスのユーピテル像の指輪に彫りつけたんですからね」.問題となっているのはやはり男色の暗示です.倫理の本が不道徳な少年愛から生まれているところに痛烈な皮肉があります.したがって伏字は皮肉を言いやすくするための操作だと考えられます.反語的に用いられたvenerableという形容詞は伏字の軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
10.[...]mon cousin qui aurait voulu que notre ami Χ... essayat de se risquer sur la planche,pour,si elle etait viable,s'y avancer a son tour.(III,307)「私はたまらなくなってジルベ−ルを黙らせました.洞察力の鋭さを衒ったところが我慢ならなかったんですよ.洞察力が見さかいなく働くのは洞察力が欠けていることになりますからね.それと,従兄弟の見えすいたずるさもかんにさわった.従兄弟はX...君に瀬踏みをさせておいて,ものになるようなら自分が乗り出していくつもりだったんですからね」.問題となっているのはさる高貴な人物に御者との男色をけしかけることで自分のホモ趣味を暴露するゲルマント大公の不謹慎な言葉です.伏字は例文と文脈から上流貴族の権威をおとしめるための軽蔑的な性格を帯びてきます.次の例はその問題の不謹慎な言葉です.
10a.[...]<Mais pourquoi est−ce que X... ne couche pas avec son cocher?>(III,306)「どうしてX...君は駅者と一緒に寝ないのかね.テオドールだって(それが駅者の名前ですがね)喜ばないとはかぎらんし,もしかすると,主人がいい寄ってこないのを怒っていないものでもないからね」
11.Mais Mme Verdurin[...]crut devoir justifier une invitation pour Saintine en faisant valoir qu´il connaissait beaucoup de monde,<ayant epouse Mlle ***>.(III,231)「しかしヴェルデュラン夫人はサンチーヌ夫人の実家が貴族をてらっていることは知っているが,逆に夫のほうの地位はわからないので([...]),サンチーヌを招待するについては,彼が「***家のお嬢さんと結婚した」から顔がひろいという点を強調してそれを理由にしようとした.事実と正反対のこの断定によってもわかるヴェルデュラン夫人の無知は,紅を塗った男爵の唇を寛大な侮蔑と大きな理解を示す笑いにほころばせた」.結局貴族を自称するサンチーヌ夫人の実家よりも夫の身分の方が高くなることから,伏字は貴族の身分がいかにいいかげんなものであるかを告発するための操作だと考えられます.ヴェルデュラン夫人の無知を笑うときのシャルリュス男爵の「紅を塗った唇」に浮かぶ「寛大な侮蔑と大きな理解」という対句は伏字の軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
12.Je n'avais jamais trouve aucune ressemblance entre Mme X... et sa mere,que je n'avais connue que vieille,ayant l'aird'un petit Turc tout tasse. Et en effet j'avais toujours connu Mme X... charmante et droite[...](III,941)「これまで私はX...夫人とその母親とのあいだの類似に気づいたこともなかった,なにしろ私がその母親を知ったのは母親が年をとってからで,まるでやせおとろえたちっぽけなトルコ人だった.もちろん娘のX...夫人のほうは,そのまえからずっと私とは知りあいで,かわいくてスタイルのいいひとで,非常に長いあいだそのままにとどまっていた」.問題となっているのはいつのまにか母親と見分けがつかないほどに「老トルコ人の容貌」になってしまったかつての魅力的な娘に対する話者の驚きと失望です.母親の人物描写と娘のそれとを完全に対比させているところに皮肉があります.伏字はそれを言いやすくするための操作だと考えられます.charmanteとdroiteという形容詞の存在が伏字の軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
つぎにXとYとの対比に導かれる例を見てみましょう.
13.Elle me vanta surtout ses apres−dejeuners ou il y avait tous les jours X... et Y...(III,1026)「彼女は,かならずいつもX...やY...がきている彼女の午餐後をとくに私にじまんした.それというのも,昔,軽蔑していた[...]『サロン持の』女たちのあの考えかたを受けいれるようになっていたからで,そういう女たちの大きな長所は,彼女によればそれが選ばれた器量のしるしだったが,それは自分のところに『すべての男性』をひきつけるという点であったのだ」.プレイヤード版の編者註によればこの箇所は「作者がその脈絡を断切ってまで話のなかに挿入した付箋」で本文とは別に処理されています.直前の文脈では人気のある舞台俳優であるラシェルの朗読を餌に話者を自分のサロンへとひきつけようとするゲルマント公爵夫人の説得が問題となっています.こうして伏字は後の文脈から有名人の権威をおとしめるための皮肉な操作だと考えられます.つまりここでは有名人のX...やY...は出しにつかわれるだけでどうでもいいような存在だということです.XとYとの安っぽい対比がその軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
14.Selon les variations de la mode,et pour se conformer au gout de M.de X... ou de Y...,qu´ils esperaient recevoir,ils modifiaient chaque piece.(III,996)「娘夫妻は,流行の変化に応じるためとか,自分たちが招待したいと思っているド・X...氏やド・Y...氏の好みにあわせるためとかで部屋ごとに模様がえをするのだった.それでラ・ベルマは,睡眠だけが苦しみを静めにきてくれると思っていたその睡眠が逃げさったのを感じて,もうあきらめてねむりを呼びもどさないことにした,その心の底には,自分の死を早め,自分の最後の日々を堪えがたいものにしているこのような流行の変化に対するひそかな軽蔑がなくはなかった」.この「流行の変化に対するひそかな軽蔑がなくはなかった」という二重否定による皮肉な注釈から判断されるように伏字は貴族の威光に対する軽蔑的な操作だと考えられます.生活の全体がそれにふりまわされる社交界そのものへの風剌の意図が感じられます.XとYとの対比はその皮肉な性格を強調しているように思われます.
15.Car celui qui sait que Mme X... le meprise,sentant qu´on l'estime chez Mme Y..., la declare bien superieure et emigre dans son salon.(II,95Ο−51)「社交界の評判はそれでなくてもぐらつきやすいのに,失寵がそのぐらつきをさらに増大する.たとえば,X...夫人に軽蔑されていると知った男は,Y...夫人のところでは自分が尊敬されているという気がして,後者を格段にもちあげて吹聴し,後者のサロンに移動する,といったありさまだからである」.伏字は例文からサロンのいいかげんさを告発する操作だと考えられます.社交界そのものに対する風剌ととれます.「X...夫人に軽蔑されていると知った男は,Y...夫人のところでは自分が尊敬されているという気がして」云々という滑稽な対比の部分はその軽蔑的な性格を強調しているように思われます.
最後に頭文字に導かれる例を見てみましよう.
16.Je n'eus pas de peine[...]a reconnaitre sous son bonnet,dans sa cotte noire faite chez W..., mais, pour les profanes,pareille a celles d´une vieille, concierge,la marquise de Villeparisis.(III,630)「年月の重みが与えた悲しげで疲れた様子にもかかわらず,一種の湿疹,赤い癩のようなもので顔はみにくくなっていたが,ボネッ卜をかむり,W...であつらえた,知らぬ者には門番の老女のそれとも見える黒い上っぱりを着た姿に,私はすぐヴィルパリジ侯爵夫人を見わけることができた」.問題となっているのはすっかり年老いたヴィルパリジ侯爵失人と再会した話者の印象です.名前を奪われているWは高級仕立ての洋服屋の頭文字だと容易に推定されることから,それは例文にある「門番の老女」云々の記述と対比をなすことによって話者の皮肉が感じられます.伏字は最高級品のもつ粗末さを揶揄することによってその種の権威をおとしめるための操作だと考えられます.チュニック・コートなどを意味するcotteには「つなぎ」式の胸あてのついた作業ズボンといったマイナスの意味があることにご注意ください
17.L'excellent ecrivain G...entra; il venait faire a Mme de Villeparisis une visite qu'il considerait comme une corvee.(II,206)「すぐれた作家G...がはいってきた.彼は自分で苦役だと見なしている訪問をしにヴィルパリジ夫人のところへやってきたのだ.公爵夫人は彼をここで見出すのはうれしかったが,それでも会釈はしなかった.しかしごく自然に彼のほうが公爵夫人のそばにやってきた,彼女のもっている魅力,鋭い勘,気どらない率直さから,彼女を才気のある女性と見なしていたからだ」.問題となっているのは大作家も上流社交界では卑小な存在になりさがる皮肉な現実です.伏字は権威をおとしめるための軽蔑的な操作だと考えられます.visiteの表現的な言い換えであるcorveeという名詞の存在にもご注意ください
18.[...]la pretendue comtesse de M.qui,malgre les conseils de Mme Alphonse Rothschild,refusa de grossir les deniers de saint Pierre pour un titre qui n'en serait pas rendu plus vrai.(II,294)「名のる権利のないものを名のる以上,あれこれもったいをつけないがいいにきまっている,ちょうど私たちのすぐれた女の友,いわゆるM.伯爵夫人と称するひとのようにね,このひとは,アルフォンス・ロスチャイルド夫人の忠告にもかかわらず,サン・ピエトロ大聖堂への巨額の献金で名のれるような称号を拒否しました,そうしたからといってその称号がより真実になるわけもないでしよう」.伏字は貴族の身分や爵位が金で買えるという社交界のいいかげんな現実に対して皮肉を言いやすくするための操作だと考えられます.ここでは蔑称に近い形容詞であるpretendueの存在によって伏字ははっきりと軽蔑的な性格を帯びてきます.
19.Des le moment,par exemple,ou la charmante comtesse G... entrait chez les Guermantes,le visage de Mme de Villebon prenait exactement l'expression qu'il eut du prendre si elle avait eu a reciter le vers(II,443)「たとえば,魅惑的なG...伯爵夫人がゲルマント家にはいってくるようになったときから,ヴィルボン夫人の顔面は,まるで彼女がつぎの詩句を朗読しなくてはならなくなったかのような表情にそっくり似てきたのだ,『一人しか残らないとすれば.私こそはそれになるだろう』,この詩句[ユゴー詩篇「ウルティマ・ヴェルバ」(『懲罰詩集』)の最終行]は,しかし,相手の伯爵夫人の知らない詩句であったけれど」.問題となっているのは魅力的なG...伯爵夫人に異常なライバル意識を燃やすヴィルボン夫人の態度です.実際,きれいで金持ちの伯爵夫人に一泡吹かせてやろうとするヴィルボン夫人の滑稽な辛抱は直後の文脈で連続して揶揄されています.そんななかで伯爵夫人の無知を知らせる話者の何気ない注釈は「魅力的な」という形容詞に皮肉な色合いを添えると同時に伏字の軽蔑的な性格を強調しているように思われます.美女の無知は事物の対比を敏感に感じとる話者にはとくにめだつらしくその点を強調せずにはおれないようです.後の文脈で彼女の無知はヴィルボン夫人の滑稽な態度と共にもう一度告発されることになります.次の19a.から19c.までの例は本例の文脈になっています.
19a. Cette Courvoisier avait avale presque tous les lundis des eclairs charges de creme a quelques pas de la comtesse G..., mais sans resultat.(II,443)「クールヴォワジェ家から出ているこのヴィルボン夫人は月曜日[クールヴォワジェ家の客日]にはほとんどいつも,G...伯爵夫人を数歩のところに置いて,クリームがいっぱいはいったエクレアをいくつもうのみにしてみせたのだが,なんの結果もえられなかったのであった」.
19b. Au reste,anticipons sur les evenements en disant que la <perseverance>, rime d´<esperance> dans le vers suivant,de Mme de Villebon a snober Mme G... ne fut pas tout a fait inutile.(II,443)「『天の運命だ!私の不幸は凌駕する,私の希望を.』もちろんこれもまえの詩句以上に伯爵夫人の知らない詩句であった.そのうえ,出来事を先どりしていえば,G...夫人に一泡吹かせてやろうとするヴィルボン夫人の『辛抱』は−−この語は上に上げた詩句の『希望』とそのつぎの行で脚韻をふむのだが−−まったくのむだでもなかった.」
19c. Aux yeux de Mme G... elle doua Mme de Villebon d'un prestige tel,d'ailleurs purement imaginaire, que, quand la fille de Mme G...[...]fut a marier,on s'etonna de lui voir refuser tous les ducs.(II,443)「G...夫人の目には,ヴィルボン夫人のそのような辛抱強さが,かえってこのひとに一種の威光を,それもまったく想像にすぎない威光を,もたせることになったので,当時の流行をリードしていた舞踏会のなかで一番きれいで一番金持だったG...夫人の娘が,結婚する時期になったとき,その母親がどんな公爵の候補者をもはねつけるのを見て,みんなはあっけにとられた.じつはその母親が[...]自分の娘の夫には[ヴィルボン家の息子という]ただひとりの相手しか望んでいなかったから」.
2Ο.Au moment ou je faisais signe a un fiacre,j´avais rencontre le fameux professeur E...,presque ami de mon pere et de mon grand−pere[...](II,314)「辻馬車に合図を送っていたとき,私は有名なE...教授に出会ったのであった,私の父の友人というか祖父の友人というか,いずれにしても二人とは親しい間柄で,ガブリエル大通に住んでいるのだが,私はとっさのひらめきで,私の祖母にはおそらくうってつけの助言者であろうと考えて,この人がそとから帰ってきたところをひきとめたのであった」.問題となっているのは病気の祖母を救いたい一心で有名なE...教授に往診を願う話者です.「有名な」という形容詞の添加からも判断されるように伏字はまず権威の象徴として現れています.しかし後の文脈から伏字は権威をおとしめるための軽蔑的な操作であることがしだいにわかってきます.直後の文脈には人の生命どころか礼服や勲章のことばかり気にするこの卑俗な医学の権威者に対して何をか言わんやの心境で彼の往診をあきらめる話者の姿があります.こうしてこの教授は祖母がなくなってからはありったけの皮肉をぶつけるために以後5回も名前を奪われた形で登場することになります.
21.Je fus a ce moment arrete par un homme assez vulgaire,le professeur Ε...(II,640)「そのとき私は一人のかなり俗っぽい男にひきとめられた,Ε...教授である.彼は先刻から私をゲルマント家で見かけておどろいていたのだった.私もやはり彼をそこに見かけておどろいた,というのは,彼のような種類の人物が,大公夫人のところで見られたことはそのまえもそののちもけっしてなかったからである.彼は最近大公の感染性肺炎を治癒させたところで,いまは健康管理にあたっているのだが,それにたいする夫人の特別の感謝が,慣例をやぶった招待になったのであった.こうしたサロンではまったく知った人がいない,そうかといって死の司祭のように一人でむやみにサロンのなかをうろつくわけにも行かないので,私の姿を認めると,私にいうべきことがかぎりなくあることを生まれてはじめて感じた」.問題となっているのは話者が祖母の往診を頼んで断わられてからしばらく経って,祖母の死後,ゲルマント家のサロンで俗っぽいE...教授と再会したときの話者の軽蔑的な反応です.医学の権威者も知り合いのいない上流社交界のサロンでは彼はすっかり卑小な存在になりさがっており.話し相手がいないのでかつてはつっけんどんに彼の頼みを断わった教授が話者をサロンに見つけて彼から離れまいとする教授の狼狽ぶりが揶揄されています.ここでは「Ε教授」と同格をなしている「かなり俗っぽい男」というマイナスの意味の注釈によって軽蔑的な意図は強調されています.このときから伏字は権威をおとしめ,医学への不信を表明するための風剌的な性格を帯びてくるのです.次の21a.から21d.までの例はこの種の皮肉な記述で満たされた文脈を示しています.
21a. C'est ainsi que le professeur Ε... apprit ou rapprit la mort de ma grand'
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mere,et,je dois le dire a sa louange,qui est celle du corps medical tout entier, sans manifester, sans eprouver peut−etre de satisfaction.(II,640−41)「そのようにしてΕ...教授は私の祖母の死を知った,というよりもあらためて知ったのだ,そしてそのことを私は彼をほめるためにいわなくてはならない−−それは医学界全体をほめることになるのだが−−ただし,それだからといって私が満足を表明しているとか.満足を感じているとかいうことにはおそらくならないだろう.医師のあやまりは数知れない.医師は普通,療養に関しては楽観論であやまりを犯し,結論に関しては悲観論であやまりを犯す[...].」
21b. C'est ce qui explique que le professeur Ε...[...]sut ne me parler que tristement du malheur qui nous avait frappes.(II,641)「医者たちにとって([...]),一般に,その診断をくだすときの得意さにくらべて,診断が効を奏さなかったときの不満と焦燥はもっと大きい.E...教授は,診断をあやまらなかったことを知っておそらく感じたにちがいないその知的満足がたとえどのように大きかったにしても,私たち一家を襲った不幸については顔をくもらせてしか話すことができなかったのはそのためである.彼は会話を簡単に切りあげようとはしなかった.会話は彼に平静と,場所を動かなくてもいい格好の理由をもたらしてくれるからだった.彼は連日のひどい暑さの話をしたが,学問もあり,りっぱなフランス語で表現することもできたのに,『この異常熱気hyperthermieに苦しくはありませんか?』などといった.それというのも,医学はモリエール以来その知識の点では多少の進歩をとげたが,語彙の点ではなんの進歩もないからである.私の話し相手はつけくわえた,『たいせつなのは,とりわけ暑すぎるサロンのなかなどは,このような気候がひきおこす多汗に気をつけることです.変だと思ったら,家に帰って飲物がほしくなったときに,熱療法をやればいいのです.』(それはあきらかに熱い飲物をとれということなのだ).」
21c. Je n'en parlai pas au docteur E..., mais de lui−meme il me dit: <L'avantage de ces temps tres chauds, ou la transpiration est tres abondante, c'est que le rein en est soulage d'autant.>(II,642)「祖母の死にかたに関係があるために,話の主題が私の興味をひくのだった.あるすぐれた学者の本で,発汗は,ほかに出口がある物質を皮膚を通して出すから腎臓に害があるのだ,ということを私は読んだばかりだった.私は祖母が死んださなかのあの酷暑をうらめしく思い,それに罪をきせたいくらいだった.私からはそんなことはいわなかったが,Ε...医師自身のほうからいった,『こうしたきわめて暑い気候の長所は,発汗がきわめて多量で,それだけ腎臓の負担が軽減するということです.』医学は正確な学問ではない.」
21d. Accroche a moi, le professeur Ε... ne demandait qu'a ne pas me quitter.(II,642)「私に食いついたΕ...教授は,一心に私から離れまいとしていた.」
以上で内容の吟味を終わります.これまで,軽蔑的な伏字の諸例を.第1に貴族社会の高い階級を示す称号に導かれるもの,第2に一般社会の高い身分を示す称号に導かれるもの,第3に身分的な上下関係を感じさせない称号に導かれるもの,第4にXとYの対比に導かれるもの,第5に頭文字に導かれるものといった5つのパターンに分けて意味内容を見てきました.最初の3つのパターンでは一般に名前を伏せることで貴族や社会の権威者たちの言動の卑俗さを暴露する操作が支配的であったように思われます.名前を伏せておくと心置きなく皮肉をぶつけられるということがあります.また4番目のパターンでは伏字にはっきりとした一般性をちたせることで社交界そのものを風剌しようとする操作が優勢であったと言えましよう.しかもXとYとの対比はそれ自体二足三文的な安っぽい性格を当の名前を奪われた人物に与えるという限りにおいて,効果的な強調の手段となっていたということです.さらに最後のパターンでは頭文字として名前を伏せることで個人的な皮肉をそのまま社会的な風剌にすりかえる操作が支配的でした.とくに第21例に代表されるような頭文字に導かれる伏字の執拗な反復に目を向ける必要があります.ここで伏字が何度もくり返されているという事実は話者のとくにアピールしたい問題がそこに含まれていることの証拠であるように思われます.名前を奪われた人物はもはや個人的な存在ではなくなって,むしろ問題をかかえた社会の象徴となり,職業や階級全体に対する風剌の標的となります.こうして名前を奪われたΕという頭文字の医師は当時の医学の不正確を告発するための格好のいけにえとなっているのです.そのとき望みうる名医たちの治療によっても彼らの誤診などによって祖母や作家のベルゴットを死から救えなかった医学に対する話者の軽蔑と不信はぬぐいようのないものであったということです.docteur,professeur,specialisteといった伏字につく医学の権威を示す称号はそれを強調する役割を果していたように思われます.貴族や僧侶を示す称号に導かれる用例についても事は同様です.princeとかduchesseとかcomteとかcomtesseとかcardinalといつた高い位を示す称号は彼らの言動の卑俗さを強調するものであったということができます.また反語的に使われていたfameux,venerable,excellent,charmantといった形容詞の存在にも注意せねばなりません.さらに第18例における蔑称的な形容詞のpretenduと名詞のcomtesseとの対比や,第5例における貴族の称号を伴うM.deとその同格名詞であるmeunierといった皮肉な対比にもご注意ください.それらはすべて伏字の軽蔑的な性格を強調するのに役立っていたということです.本来,人間には物事をはっきりと示されると,もうそれに関心を示さなくなる傾向があり,逆に,それを思わせぶりに隠されたりすると,人はもっとよく知りたいという気になるものです.伏字はそんな指向性をもっているように思われます.何回も登場する重要な人物は別として無数の社交界の人物がエキストラとして登場してくる『失われた時を求めて』のなかでは名前を奪われているということは,それだけで印象的な目だつ特徴だといえましよう.しかしそれはそのままその伏字の人物をその都度別な人物として覚えているということを意味しているわけではありません.つまり名前を奪われた人々は他のエキストラと異なって全員が伏字という共通の形式特性をもつことによってノルポワ大使やゲルマント公爵夫人とおなじようにいわば上流階級かエリートを代表するひとりの重要な作中人物になってしまっているということです.それを裏づけるように伏字の人物が彼らと同列に置かれている用例が何例かあることを報告しておきます.そんなわけで人名の伏字はちょうど『失われた時を求めて』のなかでその滑稽な言動がいつでも話者の揶揄の対象となっていた卑俗な医師コタールCottardの名前に見られる−ardという軽蔑語的な接尾辞がそうであったように,プルーストにあっては何よりもその本来の指向性を利用した特権階級に対する蔑称的な性格を帯びた個人の皮肉を社会の風剌にかえる表現的な道具ということになりましょうか.