日英仏語の諺における対照分析
久 野 誠
Contrastive Analysis of Proverb : Japanese,English and French
Makoto Hisano
Abstract
The difference for every race tends to appear in a proverb. Even between English and French, the language group differs although the language family is the same. Then, we have to appreciate the nuances in each proverb. It is also a medium universal on the other hand. What feature does a successful proverb have? The following are three conditions which produce a popular proverb:Brevity,Concreteness,Rhetoric. Or,Contrast, Metapher, Rhyme. Shakespeare wrote in Hamlet, “Brevity is the soul of wit.” Brief exemples : “Might is right.”, “Qui dort dîne.”,“Traduttori, traditori.”(Ital.),etc. Proverbial phrases that still linger in our ears include effective rhetorical devices. Rhetorical exemples : “Spare the rod and spoil the child.”,“Tout passe, tout casse, tout lasse.”, etc. Therefore, we will perform contrastive analysis of the proverb of Japanese, English and French from these viewpoints.
Key words : Brevity, Concreteness, Contrast, English, French, Japanese, Metapher, Proverb, Rhetoric, Rhyme, etc.
Received Sept.27.2003
諺には民族ごとの差が現れやすい。仮に基本的な意味内容が同じであっても、特に輸入されたものでない限りは、微妙に違っていたりする。英語とフランス語でも、語族は同じだが語派は異なる。そのため、両国語が完全に重なり合うわけではない。そこで本稿では、欧米語の代表として英語とフランス語とを日本語と照合することによって、各言語間の表現法のずれを確認したい。ところで成功した諺には何が備わっているのか。諺の表現特性には、大きく分けて、簡潔、具体化、押韻、の3種が考えられる。あるいは対比、比喩、語調といってもよい。同じことを意味するのであれば、わかりやすく簡潔に示されているほうがよい。また具体的で間接的なたとえになっているかどうかも大事である。さらに、耳に残る表現には修辞的な配慮がなされていることが多い。そんなわけで、本稿では、これらの観点から、日英仏語の諺が対照分析的に検討されるだろう(1)。
諺は文化である。それは物の感じかたの違いが地域ごとに表出しやすい媒体であるように思われる。対照言語学的に等価対応の表現を比較しても、諺は言語ごとに変化することが多い。「背に腹は代えられない」という表現がある。お腹が空いたら他のことは考えられない、差し迫ったことのために他を顧みる余裕がない、という意味である。それが英語では、“Hunger will break through stone walls.”〈飢えは石の壁をも打ち破る〉となり、フランス語では «La faim chasse le loup (hors) du bois. »〈飢えは狼を森から追いやる〉となる。基本的な意味はほとんど同じだが、それらは三者三様のかたちをとっている。日本語の例は直接的で生々しいたとえになっている。また英語の例は《誇張》を前面に押し出した表現になっている。それに対して、フランス語の例は、狸や熊が山林の乱開発によって居場所がなくなり、食べ物を求めて街中に出没するという、現代の環境問題を先取りしたようなところがあって、三者のなかでもっとも時宜にかなっているように思われる。確かに、そうした動物たちにとって、危険を顧みず、民家のゴミ箱をあさりにくることは、「背に腹は代えられない」行為である。人間のことを直接語るのではなくて、動物のたとえというかたちを借りて、人間社会の道理を示すところに諺の真骨頂がある。
また「後悔先に立たず」式の表現は、英語では“Don’t burn your boat.”〈自分のボートを燃やすな〉となる。これは、いつでも引き返すことができるようにボートを確保しておくたとえから、みずから後戻りできない状況をつくるな、の意味である。boatだけでなく、bridgeやshipの語も使われる。それがフランス語では «Il ne faut pas (jamais) dire : Fontaine, je ne boirai pas de ton eau. »〈泉よ、お前の水は飲まない、と決して言ってはならない〉となったりする。後で水を飲むような事態にならないとも限らないので、あらかじめ飲まないと言ってしまうな、ということであろう。どちらかというと、「覆水盆に返らず」や「後の祭り」といった日本語の諸例が、何かの失策をしてしまってからの後悔を強調することによって、注意を促すタイプであるのに対して、欧米語の例では、最初から、してはならないことを具体的なたとえで、強調するものになっている。いわば、「後悔先に立たず」より「背水の陣を敷く」に近いものがある(3)。このように、諺は意味の似通った表現のあいだで変化に富むので、対照分析に適したものがある。
「ヨーロッパの諺は日本のものにくらべて,聖書や賢人の言葉などの教訓的な諺がいちじるしいが,民間生活において生まれ,添削されてきた向上的,民俗的な諺もけっして少なくない。この種の諺には地方的特色が濃厚で,たとえばフランスでは〈卵をわらずにオムレツはできぬ〉という表現をとっている観念が,オランダでは〈ニシンが網にはいるまでは自分のニシンとはいえぬ〉となり,イタリアでは〈木の枝のカラスを売るな〉といわれる。釈梼に説法の愚を説くのに,イギリス人は〈ニューカスルに石炭〉(ニューカスルは石炭の産地)といい,スペイン人は〈ムーア人の家でアラビア語をしゃべるな〉という。そのほか〈日曜うまれの病みしらず〉(フランス),〈悪魔のうわさすれば悪魔が現れる〉(各国)のように民間信仰から生まれたもの,〈日の照るうちに干草つくれ〉(イギリス)のように地方特有の天候と産業とを扱ったもの,〈ハイデルベルクの酒,樽で大きいばかり〉(ドイツ)など,地方習俗の各面が諺の形式で現れている。」(4)
他方で諺は普遍的な媒体でもある。それは音楽のように全世界の人々が何らの予備知識なく理解し得るものではない。しかし、人間が普遍的な存在である以上、その生きる知恵は言葉の壁さえなければ国を越えて通用するように思われる。諺の本質はこの賢く生きる知恵を凝縮した表現で示すことにある。その意味で諺は万国共通のものになることも多い。英仏語はともかく、日本語と欧米語とのあいだで同じ形式をとるということは、それが普遍的なものであることをある程度物語るだろう。そこで、相違点をもった諸例を云々する前に、まず日英仏語でほぼ完全に対応している例を示しておこう。「時は金なり」や「二度あることは三度ある」や「火のない所に煙はたたない」などのように、欧米語源のもので日本に流布したものは、当然、日本語でも欧米語でも同じ構成になる。つまり“Time is money.”“Never two without three.”“There’s no smoke without fire.”は、それぞれフランス語では、«Le temps, c’est de l’argent. » «Jamais deux sans trois. » «Il n’y a pas de fume sans feu. » になる。「猫に小判」は日本的な諺だが、「豚に真珠」は英仏語でもほぼ同じ内容をもつ。“like casting pearls before swine”«donner des perles aux pourceaux » swineもpourceauも豚を意味する。「青天の霹靂」には“like a bolt from the blue”«un coup de tonnerre dans un ciel serein » が対応している。英語の〈青空から稲妻〉にしても、フランス語の〈晴れた空に雷〉にしても、日本語のものにほとんど対応している。boltはいわゆるボルトではなくthunderbolt〈稲妻〉の意味。「電光石火の」は、“as quick as lightning”«rapide comme l’éclair » 〈稲光のように速い〉に相当する。ここでも、欧米語はいずれも日本語に対応している(5)。
次に、日本語と欧米語のあいだでは同じタイプになるが、英語とフランス語のあいだで表現にずれが見られるものを示そう。「苦しいときの神頼み」では、日英語の例が似通った内容になっている。英語では“Danger past, God forgotten.”〈危険が通り過ぎると、神は忘れ去られる〉。それに対してフランス語では、«La fête passé, adieu le saint. »〈祭りが過ぎると、聖人におさらば〉と、欧米の人にとって身近な聖人祭のたとえのかたちをとって表現される。また「果報は寝て待て」では、日仏語の例が似通った内容になっている。“Everything comes in time to him who waits.”〈すべては早晩待つ人にやってくる〉 «La fortune vient en dormant. »〈幸運は眠っているときにやってくる〉「ローマは一日にしてならず」“Rome was not built in a day.”〈ローマは一日にしてならず〉«Paris ne s’est pas fait en un jour. »〈パリは一日にしてならず〉ローマほどではないが、パリにも古い歴史と伝統があるので、フランス人は、RomaをParisに置き換えた。「習うより慣れよ」“Practice makes perfect.”〈練習が技を完璧にする〉 «C’est en forgeant qu’on devient forgeron. »〈鉄を打っているうちに人は鍛冶屋になる〉ここでは、フランス語の例だけが具体的なたとえのかたちをとっている。効率的ではないが捨てがたい味がある。しかし、機械化が進んで、鍛冶屋を目にすることが少なくなった現代では、日英語式に抽象的に端的に示すほうがよいのか。「あちらを立てればこちらが立たず」“It must be either one thing or the other.”〈一方かもう一方かのいずれかでなければならない〉 «Il faut qu’une porte soit ouverte ou fermée. »〈ドアは開いているか閉まっているかでなければならない〉日英語のものは一般的な説明という意味で似通っているが、フランス語の例は、具体的なたとえになっている。「壁に耳あり」は、“Pitchers have ears. ”〈水がめには耳がある〉 «Les murs ont des oreilles. »〈壁に耳あり〉になる。日仏語間で対応が見られる。英語でも、もちろん、Pitchersの代りにWallsを使うこともできる。壁は、世界中のどこの家にもある。しかし、水がめは必ずしもどこの家庭にでもある一般的なものではない。日本語で「壁に耳あり」の後に続く「障子に目あり」は、障子のある家が少なくなっていることから、死語になりつつある。
さらに日本語源のもので、欧米の諸言語とたとえかたが異なっていたり、等価対応した場合に、意味のずれが見られるケースがある。「雨後の筍の如く」は“like mushrooms ”«pousser comme des champignons après la pluie »になる。欧米語では、雨後に大量発生するものとしては筍の代りに西洋きのこの代表であるマッシュルームが選ばれている。「将棋倒し」は“go down like ninepins”«tomber comme des quilles »に相当。英仏語では将棋の代りにチェスではなく九柱戯の語が使われる。「瓢箪鯰」は“as slippery as an eel”«un caractère comme une anguille »に対応する。「瓢箪で鯰を押える」は、ひょうたんもなまずもつるつるすべることから、つかみどころがなく要領を得ないこと、の意味になる。欧米語では、なまずがうなぎに変る。なまずは英語でcatfish、フランス語silureという。「飼犬に手をかまれる」は“like warming the snake in one’s bosom” «réchauffer un serpent dans son sein »になる。つまり犬のたとえは英仏語ではいずれも蛇の比喩になる。「火を見るより明らか」は“as clear as day”«clair comme le jour » に対応。欧米語では、いずれも〈昼のように明るい〉から「火を見るより明らか」の意味になる。「天にも昇る心地」は“as happy as a king”«heureux comme un roi » に相当する。王政を経験しているイギリスやフランスの言語では、〈王のように幸福な〉の紋切り型がある。
「三人寄れば文殊の知恵」は、英語では“Two heads are better than one.”〈二つの頭は一つよりもよい〉、フランス語では «Deux avis valent mieux qu’un. »〈二つの意見は一つにまさる〉に相当する。愚かな者も三人集まって相談すれば文殊菩薩のようなよい知恵が出るものだ、の意。文殊は知恵第一の菩薩であり、信仰の対象となってきた。毛利元就と三本の矢のエピソードにも見られるように、三つ組のリズムは、日本語の諺に何かすわりのよさを与えるように思われる。欧米語の例はいずれもたとえを含まない単純な説明になっている。「仏の顔も三度」どんなに寛大な人でも、何度も道理にはずれたことをされたら、しまいには怒り出すものだ、の意。日本語の例では、視点が被害者の側にあるのに対して、以下の英仏語の例では、加害者側にあることに注意されたい。ここでも、「三」という数が顔を出している。“The pitcher goes so often to the well that it gets broken at last.” 〈何度も水を汲みに行けば水がめも最後には割れるものだ〉何度も悪事を働けば、いつかはしくじるときがくるの意。説明的なたとえになっている。 «Tant va la cruche à l’eau qu’à la fin elle se casse. »〈何度も水を汲みに行けば水がめも最後には割れるものだ〉何度も危険を冒せば最後は身を滅ぼすというもの。「壁に耳あり」の代りに〈水がめに耳あり〉が使われていたように、水がめのたとえは欧米では一般的なものであることがわかる。「馬の耳に念仏」“None is so deaf as those who will not hear.”〈聞く耳をもたない者は、耳の聞こえない者より始末が悪い〉 «Il n’est pire sourd que celui qui ne veut pas entendre. » 〈聞く耳をもたない者は、耳の聞こえない者より始末が悪い〉欧米語ではいずれも、同じタイプの説明的な諺になっており、「馬の耳に念仏」のように効率的なたとえ話になっていない。「女心と秋の空」秋空は晴れたり曇ったりして天気がはっきりしないところから、心が変りやすいことのたとえに使われる。女心が男心に変えて用いられることもある(6)。 “Woman is fickle ever.”〈女心はいつでも変りやすい〉 «Souvent femme varie. »〈女の気持ちはころころ変る〉欧米語の諸例は文字通りの説明的なものになっている。それに対して、日本語のほうは語のカテゴリーが異質でありながら、共通認識のできる語句「女心」「秋空」を等位的に並べて効果を挙げている。「転ばぬ先のつえ」“Prevention is better than cure.”〈予防は治療にまさる〉 «Mieux vaut prévenir que guérir. » 〈予防は治療にまさる〉欧米の例はいずれも、そのままズバリの表現になっている(7)。「弱り目にたたり目」「泣きっ面に蜂」“Misfortunes never come singly.”〈不幸は決して単発には終わらない〉 «Un malheur ne vient jamais seul. » 〈不幸は決して単発には終わらない〉欧米の諸例では、たとえを含まない説明的な表現になっている。日本語でも、「弱り目にたたり目」は、ほとんどたとえを含まないが、「泣きっ面に蜂」では例によって虫のたとえが登場している。「ミイラ取りがミイラになる」人を連れもどしに行った者が、そのまま帰って来なくなる。転じて、相手を説得するはずが、逆に相手に説得されてしまうことを意味する。つまり、欧米語の例にあるような詐欺のニュアンスは日本語の例にはないように思われる。“It’s a case of the biter bit.”〈だまそうとした人がだまされるケースである〉biterは原義は噛みつく人だが、俗語で詐欺師を意味した。現在ではそれが単独使用されることはない。フランス語の «Tel est pris qui croyait prendre. »〈だまそうとした人がだまされる〉では、prendreも〈だます〉の意味に使われているとすれば、英語の例と同一のものとして解釈されよう。「紺屋の白袴」紺屋は染物屋で、染物屋の人が意外に染物を身につけていないように、人のことで忙しくて自分のことにかまける状態をいう。欧米の諸例はいずれも靴屋の比喩になっている。“The shoemaker’s wife is always the worst shod.”〈靴屋の妻はいつでも最低の靴を履いている〉 «Les cordonniers sont les plus mal chaussés. »〈靴屋は最低の靴を履いているものだ〉欧米の童話や物語には、よく靴屋が登場するところから、靴屋のたとえはポピュラーであることがわかる。「憎まれっ子世にはばかる」ここでは日本語の例が直接的で文字通りの説明になっている。それに対して、英仏語の例は植物の比喩のかたちをとっている。雑草のたくましさは万国共通の認識で、それだけたとえは無理のないものになっている。“Ill weeds grow apace.”〈雑草は生長が早い〉«Mauvaise herbe pousse (croît) toujours. »〈雑草は次から次と芽を出す〉「人は見かけによらぬもの」日本語の例は一般的な説明になっている。“The cowl doesn’t make the monk.”〈修道士の頭巾付外套が修道士をつくるのではない〉 «L’habit ne fait pas le moine. » 〈修道士の格好が修道士をつくるのではない〉英仏語の諸例では、いずれも、修道士の服装の比喩で、いかにも欧米的なたとえになっている。
最後に、日英仏語でたとえかたがそれぞれ違っていることも考えられる。「掃溜に鶴」は、欧米語では“a jewel on a dunghill”«des perles sur du fumier » になる。 掃溜の部分はdunghill=fumierと完全に対応しているものの、日本語では「掃溜に鶴」、英語では〈掃溜に宝石〉、フランス語では〈掃溜に真珠〉と美しいもののたとえが、それぞれ異なる。鶴はもちろん日本的なたとえである。また「瓜二つ」“as like as two peas(eggs) ”«se ressembler comme deux gouttes d’eau » 瓜が英語ではえんどう豆か卵、さらにはフランス語では水滴に代るのは興味深い。卵ならまだしも、水滴はその諺を知らない者にとっては斬新な選択に見える。「鳩が豆鉄砲を食ったよう」は、英語では“look like a duck in a thunderstorm” 〈雷雨のなかのアヒルのよう〉、フランス語では«ouvrir des yeux ronds »〈目を丸く見開く〉になる。鳩の比喩は英語ではアヒルのたとえになっている。フランス語の例は〈目をさらのようにする〉に近いオートドックスな言い換えになっている。「泥酔」は、“as drunk as a fish etc. ”«ivre comme une soupe » に対応している。英語では〈魚のように酔った〉、フランス語では〈スープのように酔った〉と独特の身近なたとえになっている。「飛ぶように売れる」は“sell like hot cakes”«se vendre comme des petits pains »になる。英語ではホットケーキ、フランス語では小さなロールパンと、英仏語は同じようなたとえになっているが微妙に異なっている。「のれんに腕押し」は英仏語では“like beating the air”«un coup d’épée dans l’eau »に変わる。英語では〈空気を打つような〉、フランス語では〈水中に剣で一突き〉と、いずれも感覚的には共通認識の可能なたとえであるが、表現にずれがある。「眼に入れても痛くない」は、“like the apple of one’s eye”«aimer comme ses yeux » といったりする。この比喩はどの言語でも眼を問題としているが、英語では、〈眼の中のりんご[=瞳]のように愛する〉、フランス語では〈自分の両目のように愛する〉と微妙に意味が変ってくることに注意されたい(8)。
「人のふり見てわがふり直せ」日本語の例は文字通りの説明で比喩を含まない。英語では“If the cap fits, wear it.”〈帽子が頭に合えば、かぶりなさい〉になる。思い当たる節があれば、自分のことだと思いなさい、の意。capはshoesに換えることもできる。フランス語では «Qui se sent morveux se mouche. »〈洟が出ていると思ったら、洟をかみなさい〉になる。欧米語の諸例は、この種のたとえとしては日本人にはわかりにくいかもしれない。「虻蜂取らず」は、“Don’t try to do two things at once.”〈同時に二つのことをしようとするな〉、«Il ne faut pas courir deux lièvres à la fois. » 〈同時に二匹の兎を追ってはならない〉になる。虻と蜂の両方をとろうとすると、どちらも逃がしてしまう。どちらかに絞りなさい。欲をかくと失敗する、のたとえ。英語の例は文字通りの説明的なもので、意味はすぐに理解できるが、直接的すぎて諺としての味わいに欠ける。それに対して、日本語の「虻蜂取らず」は省略的すぎて、その諺の意味を知らなければ、その字面から意味を理解ことはない。その点でフランス語の例は効率的ではないが、動物のたとえは、わかりやすいものになっている。「二兎を追う者は一兎も得ず」はもちろん日本語の諺としても一般化している。「とらぬ狸の皮算用」まだ捕らえてもいない狸の皮を計算に入れてはいけない、のたとえ。“Don’t count your chickens before they are hatched.”〈まだ孵ってもいない雛を数に数えるな〉英語では、家禽としてもっと身近な鶏が選ばれている。鶏は皮だけが問題となるわけではないので、卵から孵る雛のたとえになっている。フランス語では «Il ne faut pas vendre la peau de l’ours avant de l’avoir tué. »〈まだ殺してもいない熊の皮を売ってはならない〉になる。いずれも動物のたとえ話になっており、日本では、熊よりも身近な狸が選ばれている。皮が問題となっている点でも、日仏のものは内容が似通っている。日本語では、「とらぬ狸の何とか」でも通じ、むしろ、紋切り型の諺を最後まで口にするのに抵抗があるせいか、句末をぼかしていうのはよくあることである。「雨だれ石をもうがつ」は、英仏語では“Little strokes fell great oaks. ”〈小さな一打もくり返せば大きな樫の木を倒す〉 «Petit à petit l’oiseau fait son nid. »〈少しずつ鳥は巣をつくる〉に相当する。大きな樫の木を倒すのにも、鳥が巣をつくるのにも、それなりの時間がかかるであろうが、雨だれが石に穴をあけるのにはそれこそ気の遠くなるような時間を要する。その意味で、雨だれの比喩はこの種のたとえとしてもっとも適切であるように思われる(9)。
次に、文の簡潔さという角度から日英仏語の諸例をまとめてみよう。短い形式で要領よくまとめられた濃縮エキスのような諺が問題になるのだろう。ある程度、客観的に簡潔さを測る尺度としては、音節や語数の比較がある(10)。「うそも方便」は英語では“The end justifies the means.”〈目的は手段を正当化する〉フランス語では «La fin justifie les moyens. » 〈目的は手段を正当化する〉に対応する。英仏の例ではいずれも文字通りの記述になっている。日本語の例は欧米語の例と基本的な意味は同じだが、3語と簡潔にまとまっている。「言わぬが花」は“It is not always wise to speak the truth.”〈真実を話すことが賢明とは限らない〉、«Toute vérité n’est pas bonne à dire. » 〈真実を話すことが賢明とは限らない〉になる。「知らぬが花」、「聞かぬが花」、場合によっては「働いているうちが花」、「遊んでいるうちが花」のように応用性の高い表現である(11)。欧米語は相変わらずたとえなしの説明に終始しているだけに、この日本語特有の言い方には簡潔で味わい深いものがある。「乗りかかった舟」は英語では“It is too late to draw back now.”〈もう引き返すには遅すぎる〉、フランス語では «Le vin est tiré, il faut le boire. »〈樽から出したワインは飲まねばならない〉になる。船に乗ったら途中で降りられないように、一度手をつけたら、やめられないことを意味する。日本語の例では、説明は中途半端だが、簡潔なたとえになっている。英文の例は文字通りの説明で、面白みがない。ワインの国フランスの諺では、身近なたとえとしてワインの比喩が用いられる。「蓼食う虫も好き好き」は、英語では“Tastes differ.”〈好みは人さまざま〉、フランス語では«Chacun son goût (ses goûts). »〈好みは各人各様〉に対応する。辛い蓼を食う虫があるように、好みはさまざまであるということ。日本語の例だけが、具体的なたとえのかたちをとっている。ここでは英語の例が2語ともっとも簡潔にまとめられている。「勝てば官軍[負ければ賊軍]」は、英語では“Might is right.”〈力は正義なり〉、フランス語では«La raison du plus fort est toujours la meilleure. »〈一番強い者の理屈がいつでも一番正しい〉になる。日本語の例は[k]の《頭韻》を含む(12)。実際は後続の「負ければ賊軍」との間で《対比》(13)をなす。英語の例は[ait]の《類音語反復》による簡潔な好例になっている。フランス語の例では、一般的な説明文がそのまま諺に使われている。「精神一到何事か成らざらん」は“Where there’s a will there’s a way.”〈意志あるところに解決法あり〉、«Vouloir, c’est pouvoir. »〈意志は力なり〉に相当する。どの言語にも、具体的なたとえは見られない。そんななかでは、フランス語の例が端的で意味も比較的すぐに理解できるという点で一歩抜きん出ている。しかも、[u/wa:r]の《類音語反復》をなしている(14)。英語でも、基本的な意味内容は変わらないが、やや説明的になっている。形式上の工夫としてはthere’sの《頭語反復》が見られる(15)。
以上、それぞれ一部の言語で端的に示される諸例を示してきた。後半の例には《頭韻》や《頭語反復》や《類音語反復》といった形式上の工夫が見られたが、諺は韻文のように効率的な言語形式であるため、これらの修辞法の活用は普遍性の獲得には欠くべからざる要素のように思われる。最後にそうした形式上の工夫を含む諸例を検討しよう。「弘法も筆の誤り」と「猿も木から落ちる」は意味の似通った諺であるが、英仏語ではそれぞれ、“Even Homer sometimes nods.”〈ホメロスさえも時には居眠りしながら駄作を書く〉、«Il n’est si bon cheval qui ne bronche. »〈どんな良い馬もつまずく〉に対応する。言うまでもなく、ホメロスは『イーリアス』と『オデュッセイア』を書いた古代ギリシアの大叙事詩人である。他方で、弘法大師空海は、後世の書道界に大きな影響を与えた人物で、文化史上の功績も大きい。彼らは、程度の差はあれ、歴史の重みに耐え、それぞれ詩文・書道の達人として登録されている。「弘法も筆の誤り」と〈ホメロスも時に居眠り〉とは固有名詞の違いはあっても、ほぼ等質の諺と言えよう(16)。フランス語の例のほうは動物のたとえになっているから、さしずめ、「猿も木から落ちる」であろう。木登り上手な猿でも、どうかした拍子に木からすべり落ちることがあるように、その道にたけた人もしくじることがあることのたとえ。猿はすべて木登り上手として印象づけられているが、馬の場合は、人を乗せて走ることもあって、駄馬も多くいることが予想されるため、「馬も道につまずく」と端的に言ってのけることはできない。
「花より団子」は、英語では“Pudding rather than praise.”〈賞賛よりプリン〉、フランス語では «La belle cage ne nourrit pas l’oiseau. »〈どんなにりっぱな鳥かごでも鳥のえさにはならない〉に相当する。食べられないものより食べられるもの、芸術など生きるのにとりあえず必要のないものより生活必需品が大事だということ。そこから風流を解さず、名目より実利をとる実用主義の強調が問題となる。英語の例は[p]の《頭韻》を含む。名誉よりお金ともとれる。無形のものより有形のもの、抽象的なものより具体的なもの。「花より団子」に似て効率的な表現であるが、花が風流のシンボルであった日本語の諺に対して、praiseは名誉的なものの象徴として存在している点が違っている。フランス語の例では、鳥にとっては、りっぱな鳥かごよりも、えさが何よりだということ。ひいては、小鳥は、二三日えさをやらないと死んでしまうだけに、現実味がある。効率的ではないが、適切なたとえ話になっている。「月とすっぽん」や「雲泥の差」は、英語では“as different as chalk from cheese” 〈チョークとチーズほど違う〉、フランス語では «c’est le jour et la nuit.» 〈昼と夜ほど違う〉になる。特に、英語で、chalkとcheeseは[tʃ]の《頭韻》を含む好例である。フランス語は反意語の対立を持ち込んでいるのに対して、日本語の例では、反意語ではないが、まったくジャンルの異なる語を突き合わせることで、強調を行っている。「棚からぼたもち」は、“Fortune favours fools.”〈幸運は愚か者に恩恵を与える〉、« Aux innocents les mains pleines. »〈愚か者に福〉に対応する。日本語では、衒いがある場合、「棚ぼた」式などと略語で口にされることが多い。英語の例は、結果的に完全な[f]の《頭韻》になっており、押韻の点で一歩進んでいる。「石橋をたたいて渡れ」は、それぞれ“Better safe than sorry.”〈後で後悔するより先に用心するほうがよい〉、«Deux sûretés (precautions) valent mieux qu’une. »〈二つの用心は一つにまさる〉に対応。石の橋は人がその上を歩いたぐらいでは通常びくともしないが、それでも、もしかしたら、土台に大きな亀裂があって崩れるかもしれないから、注意して歩行するという用心に用心を重ねる姿勢が問題となっている。ここでも、欧米語の諸例は、たとえを含まない単純な説明になっている。英語の例は効率的な形式になっていて、直訳は〈後悔より用心〉で、safeに語頭子音を合わせるためにsorryが選ばれているように思われる。一種の《頭韻》である。《頭韻》は自然発生的にできることも多い。日本語では諺における《頭韻》は一般的ではない。しかし、as busy as bee〈蜜蜂のように忙しい〉やas cool as a cucumber〈きゅうりのように涼しい〉などのように、英語では多数の頭韻的直喩が残されている(17)。その点に鑑み、この種の韻は意識的に踏まれたと考えるほうが自然である。ちなみに“sorry and sad”のようなbadの俗語表現にも《頭韻》は現れている。
「蛙の子は蛙」は英仏語では“Like father like son.” «Tel père, tel fils. » 〈この父にしてこの子あり〉に相当する。日本語の例には「鳶が鷹を生む」のような正反対の諺もある。欧米語の諸例は、文字通り、人間の親子を問題にしている。いずれも《頭語反復》的な構成になっている。しかし、動物にたとえた日本語の例のほうに面白みを感じる。もし、「この母にしてこの子あり」とか「この子にしてこの親あり」のように、一部が変形されて使われれば、多少の表現性が出てくるだろう(18)。「鬼のいぬ間に洗濯」は、“When the cat’s away the mice will play.”〈猫がいなくなると、鼠は遊ぶだろう〉、 «Quand le chat n’est pas là, les souris dansent. » 〈猫がいなくなると、鼠は踊る〉に対応する。日本語の例は、うるさい人がいないあいだに命の洗濯をする、の意。「鬼のような人」が問題になる。洗濯は通常の洗濯ではなく命の洗濯、つまり心のリフレッシュ、ストレスの発散を意味するのだから、《隠喩》である。欧米語では共に猫と鼠の身近なたとえになっている。「身から出た錆」は、英語では “He who sows the wind shall reap the whirlwind.”、フランス語では «Qui sème le vent récolte la tempête. »になる。欧米語の例は共に〈風を撒く者は嵐を収穫する〉の訳になる。撒いた争いの種は何倍にもなって自分にしわ寄せがくるというもの。欧米語はいずれも、《濫喩》気味の《隠喩》で共起制限違反の表現になっている(19)。つまり、われわれは、普通、種を撒くとは言っても、風を撒くとは言わないし、作物を収穫するとは言っても、嵐を収穫するとは言わないからである。この意味で、英仏語の例は、表現的なものになっている。「御里が知れる」は、“What’s bred in the bone will never come out of the flesh.”〈生まれつきの性質は必ず現れる〉 «La caque sent toujours le hareng. »〈鰊樽はいつも鰊の匂がする〉に対応する。直接的な説明で人に道理を説くものが無粋であるとすれば、やはり、俚諺の世界では、比喩が基本であるように思われる。日本語の例は簡潔だが、日英語の例は共に一般的な説明になっている。それに対してフランス語の例は《諷喩》になっていて、味わいがある(20)。「一寸先は闇」は、“You never can tell.”〈決して話してはならない〉 «Il ne faut jurer de rien. »〈何事も誓うなかれ〉に相当する。ここでは、英仏語の諸例が文字通りの説明に終始しているのに対して、日本語のものでは、「闇」は本当の暗闇のことを指しているわけではないので、《諷喩》と判断することができる。「ごまめの歯ぎしり」は、英語では“like kicking against the pricks”〈無駄な抵抗をして傷つく〉、フランス語では «rugissement d’une souris »〈鼠の雄たけび〉に代る。ごまめは、あの縁起物でおせち料理に入る干したカタクチイワシの甘露煮である。「ごまめの歯ぎしり」とは非力な人がむやみにいきまいてみせることをいう。弱い犬ほどよく吠えるということがあるが、rugissementはライオンの吠え声を指すだけに、《隠喩》と《誇張》がベースにある。それに対して、英語の例は弱者へのアドバイスという別な視点から構成されている。英語の例だけが説明的で、日仏の諸例はたとえかたが似通っている。「重箱の隅をほじくる」は英語では“like splitting a hair”〈一本の髪の毛を縦に裂くように〉、フランス語では«discuter sur des pointes d’aiguille »、〈針の先の[ような細かい]ことで言い争う〉に相当する。重箱の隅にある一粒のごはん粒と、大同小異の微小なレベルのたとえが問題となっている。いずれも、意味内容からして、《誇張》がベースにある。《誇張》の度合いからすれば、英語の例が一歩抜きん出ているだろうか。「船頭多くして船山に上る」は、英語では“Too many cooks spoil the broth.”〈多すぎる料理人はスープを台無しにする〉、フランス語では «Trop de cuisiniers gâtent la sauce. »〈多すぎる料理人はソースを台無しにする〉になる。指図する人ばかり多いと統一がとれず、かえってとんでもない方に物事が進んでいくことをいう。いくら船頭が多くても船が山に上ることはないだろうが、それくらい変なことになることを意味する。ここにも《誇張》が見られる。欧米語ではこの種の船頭のたとえは身近なコックのたとえに姿を変える。ここではスープとソースは料理に置き換えられうることから、強調のために《換喩》的な語句が選ばれていると考えられる(21)。
「かわいい子には旅をさせよ」は、“Spare the rod and spoil the child.”〈鞭を惜しむと子供はだめになる〉 «Qui aime bien châtie bien. »〈愛する子には罰を惜しむな〉になる。欧米語の例には、《逆説》的な性格がはっきり現れている。英語では、“spare the rod”と“spoil the child”との間に共に[s]音で始まり、theを伴う名詞が共に[d]で終わるという完全な平行性が見られる。この平行性が逆説的な意味を引き立たせるのに貢献している。またフランス語ではaimer bien〈よく愛する〉と châtier bien〈よく罰する〉とのあいだがはっきりと《撞着》になっている(22)。しかし、日本語の例では、逆説性はあいまいになっている。「急がば回れ」や「急いては事を仕損じる」は、欧米語では “Make haste slowly.”«Hâtez-vous lentement. »〈ゆっくり急げ〉に対応する。いずれも《逆説》的な構成になっている。急ぎの用があっても、急ぎたい気持ちを抑えて、少しでもゆっくり進めるほうが、物事はうまく行くことが多い。このように説明的に言うと納得できるが、表現を目一杯切り詰めるために、唐突なものになる(23)。同じ意味のグループに属する「短気は損気」は、“Haste makes waste.”〈性急さは無駄をつくる〉«Patience et longueur de temps... »〈辛抱強く気長に...〉短気は損でも普通に通じるが、ここでは、句の平行性を高めるために、損を「損気」にしている。英語は、haste〈性急さ〉にwaste〈無駄〉と《類音語反復》のかたちを選んでいる。フランス語は、ありきたりな説明文になっている。「類は友を呼ぶ」は、 “Birds of a feather flock together.”〈同じ羽の鳥はひとつに集まる〉 «Qui se ressemble s’assemble. »〈似たもの同士が集まる〉になる。フランス語の例は、ressembleとassembleとの間で《類音語反復》をなしている。英語だけが、動物のたとえのかたちを借りている。「君子危うきに近寄らず」は、英仏語では“Gather thistles, expect prickles.”〈アザミを採るときは、とげを覚悟せよ〉 «Qui s’y frotte s’y pique. »〈手を出す者は刺される〉になる。日本語の例は説明的で比喩を含まない。ここでも、英語の例がもっとも具体的なたとえのかたちをとっている。しかも、英語のものはthistlesにpricklesと《類音語反復》を実現している。フランス語の例も、《諷喩》にはなっており、s’yの《頭語反復》を含むが、ややわかりにくい。「他人の空似」は、“Comparison is not proof.” «Comparaison n’est pas raison. »〈たとえは何の証明にもならない〉に相当する。血がつながっていないにも関わらず容貌がよく似ていることをいう。欧米語で同じ形式になっているが、フランス語では《類音語反復》になっており、押韻がなされている分だけ評価できる。「百聞は一見にしかず」“Seeing is believing.” «Voir, c’est croire. » 日本語の例だけが《誇張》になっている。英仏語の例は《類音語反復》による似通った構成になっていて、動名詞と動詞不定法の言語構造的な違いだけがある。
「売り言葉に買い言葉」や「しっぺい返し」は、英語では“Tit for tat.”、フランス語では « A bon chat, bon rat. » に対応する。いずれも《対比》的に構成されている。相手の暴言に対して暴言で言い返すことを意味する。「売り言葉」とはもともと品物を売りつけるときの言葉である。titもtatも「軽打」を示す語。ただし、単独ではtitは廃語になっている。それらは《類義語反復》と《類音語反復》をなす。言ってみれば、平手打ちで、「ピシャンにパチン」といっているようなもの。「しっぺい返し」のしっぺいは、禅寺で、師家が修行者の指導に使う一尺五寸の竹杖である。また、それは、人差指と中指を揃えて手の甲を打つことを意味する。bonの《頭語反復》によって、2要素の平行性が高められる。フランス語の例の直訳は「りっぱな猫には、りっぱな鼠」である。それはプラスの意味で「敵もさる者」に相当する。「さる者」とはそうだと認められる相当な者、したたかな者を示す。等価対応させているといっても、諺の場合、このように、プラスの側面を主張したものと、マイナスの側面を指摘したものとで、意味がずれていたりするので、注意を要する。なお、chatとratとは《類音語反復》をなす。「海老で鯛」は、欧米語では“like throwing a sprat to catch a whale etc. ” «donner un œuf pour avoir un bœuf »になる。「海老で鯛」が英語で「鰯で鯨」(24)、フランス語で「卵で牛」に姿を変えるのは興味深い。œuf〈卵〉とbœuf〈牛〉は《類音語反復》をなしている。日英語の例は《誇張》の度合いは異なっているものの、ほとんど似通ったたとえになっている。フランス語の例は草食の牛が卵を食べるわけもないので、安価な卵を餌にして牛一頭を手に入れようとする画策が問題となっている。
「十人十色」は、欧米語では“So many men, so many minds.”〈人の数だけ考え方がある〉、 « Autant de têtes, autant d’avis. »〈頭数だけ意見がある〉になる。どの言語でも《頭語反復》が見られる。「悪銭身につかず」は、“Ill got, ill spent.”〈不正に得たお金は浪費してしまう〉«Bien mal acquis ne profite jamais. »〈不正に得たお金は決して有効に使えない〉に対応している。意味の面ではどの言語も似たような内容になっている。うまく《頭語反復》と《語尾同音》のかたちをつくった英語のものが好例となっている。「人事を尽くして天命を待つ」は“Man proposes, God disposes.”〈人は提案するだけで、後は神が決める〉«L’homme propose et Dieu dispose. »〈人は提案するだけで、後は神が決める〉に相当。欧米の諸例は、いずれも《語尾同音》を含む《対比》の構成になっている。「諸行無常」は、英語では“All is vanity and vexation of spirit.”〈すべてがむなしく心を悩ます〉、フランス語では «Tout passe, tout casse, tout lasse. »〈すべてが過ぎ去る、すべてが壊れ去る、すべてがうんざりだ〉に対応する。万物は常に変化して少しの間もとどまることを知らない。そこから人生ははかないという意味も出てくる。英語の例は[v]の《頭韻》を含む。フランス語では《頭語反復》になっている。フランス語の例では、各語句の呼応は完璧だ。なにしろ、[p/k/l]の交替だけですべての要素が成り立っているのだから。純粋な諺とはいえないかもしれないが、このフランス語の形式上の工夫を指摘するために、本例を掲載している。「雨降って地固まる」は欧米語では“After rain comes fair weather.”〈雨の後は好天が来る〉 « Après la pluie, le beau temps. » 〈雨後の好天〉になる。日本語の例は、雨が降ってはじめのうちゆるんでいた地盤が時間の経過とともに締まってくるように、友人同士がけんかをすることでかえって友情が深まることなどを指す。どちらも雨に関わっている点で、この日本語表現は英仏語の例に対応しているように思われる。しかし、前者では、雨天の影響と結果がすべてであり、好天と対照的に描かれてはいない。それに対して後者では、雨天と好天が対照的に描かれている。実際は「楽あれば苦あり」のほうが、英仏語の例に近いだろう。「楽あれば苦あり」というより「苦あれば楽あり」か。実際、仏和辞書などを見ても、この前者をもじった後者がフランス語の例の訳文として挙げられている。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」は、英語では“Nothing venture, nothing win.”〈冒険がなければ、勝利もない〉、フランス語では «Qui ne risque rien n’a rien. »〈何の危険も冒さない者は何ものも得ない〉になる。いずれの例にも、《反復》による平行性の強調が見られる。日英語の例は《頭語反復》をなしている。日本語の例だけが具体的なたとえになっていて一歩優っているように思われる。「なるようになる」は、“What will be will be.”〈なるようになる〉 «Qui vivra verra. »〈時がたてばわかる〉に相当する。日英語の例は、スペイン語の有名なケ・セラ・セラ“que será será”〈なるようになる〉と同じように、《反復》がベースにある。しかし、フランス語の例は、vivreとvoirの未来形を使って《類音語法》で表現されている。vivreは生きるという動詞であり、voirは見るという動詞である。「去る者は日々に疎し」は、英語では“Out of sight, out of mind.”フランス語では «Loin des yeux, loin du cœur. »〈姿を見せなくなると忘れ去られる〉に対応する。意味内容はどれも似通っている。日本語のものは例によって説明的である。欧米語の諸例は《頭語反復》を含む《対比》構造になっている。
以上、日英仏語のほぼおなじ意味内容になる諺のあいだで、3言語同一タイプ、2言語対応タイプ(日英・日仏語対応、英仏語対応)、3言語相違タイプに分けて、解説してきた。英語とフランス語は日本語と違って共にインド・ヨーロッパ語族に属する。英仏語はそれなりに共通性はあるのだが、その下位区分である語派レベルでは、それぞれゲルマン語派、ロマンス語派と異なっている。そのため、英仏語のあいだで表現法に違いが生じても、おかしくはない。ただ、長期に渡ってヨーロッパ全土を席巻してきたカトリックの伝統や、王政の歴史的な展開は、やはり日本とは根本的に異なるものがあり、それが〈王のように幸せな〉や〈祭りが過ぎると、聖人におさらば〉などの欧米語的な表現を培っている。言語ごとの表現の多様性については、やはり三者三様のものに目がいく。「泥酔」が、英語で〈魚のように酔った〉、フランス語で〈スープのように酔った〉になる。「瓜二つ」が英語で〈二つのえんどう豆(卵)のように〉、フランス語で〈二つの水滴のように〉になる。「海老で鯛」が英語で〈鰯で鯨〉、フランス語で〈卵で牛〉になる。「月とすっぽん」や「雲泥の差」が、英語で 〈チョークとチーズほど違う〉、フランス語で〈昼と夜ほど違う〉になる。「とらぬ狸の皮算用」が、英語で〈まだ孵ってもいない雛を数に数えるな〉、フランス語で 〈まだ殺してもいない熊の皮を売ってはならない〉になる。「雨だれ石をうがつ」は、英語で〈小さな一打もくり返せば大きな樫の木を倒す〉フランス語で〈少しずつ鳥は巣をつくる〉になるなど、この種の印象的な差異を示す用例には事欠かない。発想が異なっているのに、妙に納得するものが多い。また、日本語の諺と欧米語のそれとの間で、視点の違いを感じることも少なくなかった。たとえば、「後悔先に立たず」と「背水の陣を敷く」は基本的な意味を等しくするが、完全に同一の諺ではなく、ニュアンスの違いをわれわれは普段からよく承知している。しかし、これらの諺が同じグループに属するものだということを普通は考えない。欧米語の諺と日本語のそれを対応させる際に、それらが完全に重なり合わないだけに、われわれは、前者を後者のバリエーションを通して理解しようとする。「雨降って地固まる」と「苦あれば楽あり」、「売り言葉に買い言葉」と「敵もさる者」についても事は同様である。諺としては簡潔に越したことはない。シェークスピアは『ハムレット』のなかで、 “Brevity is the soul of wit.”〈簡潔は機知の神髄〉と書いている。日本語では「うそも方便」や「言わぬが花」など、英語では“Tastes differ.”や“Might is right.”など、フランス語では «Qui vivra verra. » や «Vouloir, c’est pouvoir. » などが端的な好例として挙げられる。そして、それが簡潔であるとしても、一般的な説明に終始したものよりは、具体的なたとえになっているほうがよい。さらに、万国共通の認識を可能にするような明快さも時には必要となる。最後に、そのたとえが、人間のように直接的なものよりも、動植物のように間接的なもののほうが高次元にあるように思われる。「豚に真珠」、「猫に小判」、「虻蜂とらず」、「蛙の子は蛙」、「とらぬ狸の皮算用」、「蓼食う虫も好き好き」、「二兎を追う者は一兎も得ず」など、動物にたとえた用例には枚挙に暇がない。
形式的な工夫の見られる諸例についても結果をまとめよう。諺の修辞的な特性には主に次のものがある。1.比喩。抽象的な概念を具体的なたとえで示そうとする。《隠喩》《諷喩》《擬人》などがこの種の具体化に貢献している。日本語では「海老で鯛」「のれんに腕押し」「馬の耳に念仏」と挙げればきりがない。欧米語では“Too many cooks spoil the broth.”“The pitcher goes so often to the well that it gets broken at last.” «La
belle cage ne nourrit pas l’oiseau. » «Le vin est tiré, il faut le boire. » «Il n’est si bon cheval qui ne bronche. »などが挙げられる。《隠喩》や《諷喩》は、〈風を撒く者は嵐を収穫する〉や〈鰊樽はいつも鰊の匂がする〉などのように、表現に味わいを与えてくれる。日本語の例では、「言わぬが花」式のものが応用性の高さで目をひいた。2.対比。意外な組み合わせの語句を対照的に並べようとする。《逆説》、《撞着》、《誇張》、《頭語反復》などがこの種の対比に貢献する。《誇張》は決して《冗語》ではなく、短い表現で、一面の真理を強調してくれる。また、《頭語反復》や《対比》は句に安定したリズムを与えることができる。《逆説》や《撞着》の類は「生ける屍」や「急がば回れ」のように、反面の真理に気づかせてくれる。「男心と秋の空」(七五調)「かかあ天下とからっ風」(七五調)「朝雨と女の腕まくり」など。この「AとB」タイプの諺には、欧米語に相当するものが見当たらないので、ある程度、日本的な好例だと考えられよう。実際、英仏語の諸例はi日本語のそれとは異なって、《頭語反復》や《頭韻》を伴うことが多い。“Out of sight, out of mind.”“Little strokes fell great oaks. ”« A bon chat, bon rat. », etc. 諺ではないが、「地震かみなり火事おやじ」(七五調)においては、「地震」と「かみなり」は自然現象、「火事」も放火を除けば自然現象に近いが、「おやじ」だけは異質のものとして異彩を放っている。その昔、流行語のひとつに「巨人大鵬たまご焼き」(七五調)というのがあった。これも当時の子供たちが大好きなものというとすべてにあてはまるが、強さという観点から見れば、最後の「たまご焼き」だけが食べもので他の要素とそぐわないものがある。このように異質な要素の挿入がコントラストを生む。3.押韻。構成要素間で韻を踏んだり、語調を整えようとする。《頭韻》《脚韻》《語尾同音》《類音語反復》などがリズムをつくるのに貢献する。「短気は損気」(脚韻)、「渡る世間に鬼はなし」(七五調)、「帯に短し襷に長し」(七七調)。“Might is right.”“Gather thistles, expect prickles.”“Pudding rather than praise.”«Qui se ressemble s’assemble.» «Comparaison n’est pas raison. »《頭韻》、《類音語反復》が圧倒的に多い。なかには“Fortune favours fools.”や “Spare the rod and spoil the child.”や«Tout passe, tout casse, tout lasse. » などのように、各語をほとんど完全に呼応させた用例もある。《頭韻》や《類音語反復》は表現になじみを与えるのに役立つ。これらの特性をすべて備えた諺、あるいは少なくともふたつの特徴をあわせもつものが好例をなすように思われる。
註
(1) 基本的な諺辞典としては次のものがある。日本語の諺については『故事・俗信ことわざ大辞典』(小学館)、英語の諺については『英語ことわざ辞典』(三省堂)、フランス語の諺については『フランス語ことわざ辞典』(白水社)、そして諺の類型論的な比較については『世界ことわざ大辞典』(大修館)などがある。そのほか、諺のレトリック自体については、武田勝彦『ことわざのレトリック』(海鳴社)、諺が採用している英語の修辞法については、池田拓郎『英語文体論』(研究社)を参照されたい。なお、磯川治一氏は、『直喩と英語の文体』の第2章で「和英両語の俚諺的直喩の比較」について語っている。そのなかで彼は、英語の俚諺的直喩を日本語の諺と比較しながら語法の異同の一端を示している。
(2) 対照言語学は、新たな外国語の習得に際して、母語や慣れ親しんだ英語などの悪影響(干渉)をなくすために、系統に関係なく、いくつかの言語を細かく比較照合するもので、その類似点や相違点の指摘を外国語学習に活かそうという教育的で現実的な要請から生まれたものである。対照言語学では、2,3の言語のあいだで、形式は異なるが基本的な意味の等しい文を突き合わせて、概念の射程のずれを指摘することによって、外国独自の文化や表現法を身につけ、それを外国語学習に活用することが問題となる。この種の対比を等価対応と呼ぶ。
(3) 「覆水盆に返らず」というと、“It is no use crying over spilt milk. ”〈こぼれたミルクのことを嘆いても無駄である〉が有名だが、次の例もある。“You can’t have your cake and eat it.”〈食べたケーキは手に残らない〉。 «On ne peut être et avoir été. »〈いつまでも若いままではいられない〉。これらの欧米語の諸例は十分に説明的ではないために、諺の意味を知らなければ、理解できないだろう。
(4) 『世界大百科事典』(平凡社)による。ちなみに、この引用文中で、«On ne fait pas d’omelette sans casser d’œufs. »〈卵をわらずにオムレツはできぬ〉は、日本の諺で言えば「まかぬ種は生えぬ」で、英語でも“You can’t make an omelette without breaking eggs.”と同じたとえを使う。他に同様の表現として、“As you make your bed, so you must lie on it.” «Comme on fait son lit, on se couche. »〈寝床をつくるから、そこに寝る〉がある。また、“Talk of the devil and he will appear.”〈悪魔のうわさをすれば悪魔が現れるだろう〉は日本語では「うわさをすれば影がさす」に相当する。悪魔のたとえは各国で使われるが、フランス語には、別に «Quand on parle du loup, on en voit la queue. »〈狼の話をすれば、尻尾が見える〉という表現がある。間接化の段階からすれば、日本語の例は、人が問題となっているので、より直接的な表現である。もちろん「うわさをすれば姿を見せる」よりは、工夫が見られる。欧米語の諸例は、人以外の存在にたとえられており、間接化は一歩進んでいる。フランス語の例では、さらに人と人影との関係が、そのまま狼とその尻尾に置き換えられている。
(5) この種の万国共通の諺には、他に次のものがある。「負けるが勝ち」“He who loses wins.”«Qui perd gagne. » 「便りのないのはよい便り」“No news is good news.”«Pas de nouvelles, bonnes nouvelles. »「終わりよければすべてよし」“All’s well that ends well.”«Tout est bien qui finit bien. »「鉄は熱いうちに打て」“Strike while the iron is hot.”«Il faut batter le fer pendant qu’il est chaud. »「事実は小説よりも奇なり」“Truth is sometimes stranger than fiction. ”«La vérité dépasse la fiction. » 「待てば海路の日和あり」“Everything comes to him who waits.” «Tout vient à point à qui sait attendre. » これらは多少の構文や表現法の違いはあっても、基本的な意味は3言語間で同一である。
(6) たしかに、岩波国語辞典には、女心の項目にも男心の項目にも、等しく秋の空の諺が示されている。しかも、広辞苑では男心の項目だけに秋の空の諺が掲載されている。それに対して、欧米の辞書に男心が変わりやすいことを示す諺は特に見られないように思われる。この違いは何を示しているのだろう。女心の変わりやすさは男性からの視点であろうが、男心のそれは女性からの観点であるにちがいない。前者の視点しかもたない欧米語と後者の観点を併せ持つ日本語との対比になる。
(7) 同じような意味の表現として、“Look before you leap.”〈飛ぶ前によく見なさい〉 «Prudence est mère de sûreté. »〈分別は用心の母である〉がある。これらはleapとmèreがたとえになっている。
(8) appleにはもともと瞳の意味がある。しかし、現在は、りんごの意味なので、完全に「目の中の瞳」と言い切ってしまうことには抵抗がある。つまりそれは《隠喩》をなす。
(9) 欧米語では、他に川の比喩も有名である“Little streams make great rivers.”〈小さな流れも大きな川をつくる〉 «Les petits ruisseaux font les grandes rivières. » 〈小さな流れも大きな川をつくる〉
(10) 英語の音節は、CCCVCCCのような7音を含むものでも1音節になることがある。しかし日本語の拍は等時的な単位で、その1拍1拍には原則として一つの子音に一つの母音があてがわれる。フランス語では読まない語末の子音字を語頭の母音字とつないで読ませる連音など《母音隣接》hiatusを避けるための工夫が発達しているために、発音上は、ラテン系の言語とは別の意味で、日本語の五十音に近いものがある。しかし、いずれにしても、音節数とモーラ数での単純な比較はできない。その意味では、むしろ語数のほうがよい。
(11) 花は《隠喩》で、美しいもの、風流のたとえから、当事者の幸せを示す。
(12)《頭韻》alliteration, allitérationは1つの語群の2つ以上の強勢のある音節を同じ子音で始めることを意味する。本来、それは韻文の技法のひとつであったが、散文にも拡大解釈されて使われている。同一母音のものも《頭韻》と呼ぶが、普通は子音の呼応をいう。
(13)《対比》antithesis, antithèseは正反対の意味の表現を構文上の平行性とともに並べたものを意味する。《対照法》と訳されることも多いが、ここでは、佐藤信夫式に《対比》の訳語が採用されている。
(14)《類音語反復》paronomasia, paronomaseは音声の似通った語を近い文脈でくり返すもので、《類音語法》とも呼ばれる。諺を印象づける常套手段である。
(15)《頭語反復》anaphora, anaphoreは同じ単語や同じ言い回しで一連の文を始めることを意味する。反意語に《末語反復》epiphora, epiphoreがある。
(16) 修辞学では普通名詞の代わりに固有名詞を用いる手法を《換称》という。《換称》antonomasia, antonomaseは《提喩》synecdoche, synecdoqueの一種である。ここでは、ホメロスと弘法大師がそれぞれ大詩人と大書道家の《換称》的な言い換えになっている。暴君の代りにネロというようなもので、この種の表現は、日常語でよく見られる。
(17) 英語の頭韻的直喩については、大山敏子『英語修辞法』(篠崎書林)のpp.44-5を参照されたい。
(18) 諺の改変については、武田勝彦『ことわざのレトリック』(海鳴社)を参照されたい。
(19)《濫喩》catachresis, catachrèseは《隠喩》の極端なもので、意外性はあっても、普通は納得が得られにくい誤用である。しかし、諺の世界では経年によって認知されることがある。
(20)《諷喩》allegory, allégorieは文脈中に比喩の証が存在しないタイプの《隠喩》をいう。比喩の約束事が作品の最後まで持続するものが、いわゆる寓話である。
(21)《換喩》metonymy, métonymieには、いろいろなタイプがあるが、ここでは、一部で全体を示す種類の《換喩》が問題となっている。結局、台無しになるのは料理なのである。
(22)《撞着》oxymoron, oxymoreは正反対の語を統語的に突合わせるもので、《逆説》の一種である。《逆説》は一般に文章レベルでの対照をいう。
(23) 類似の例として、“More haste less speed.”〈ゆっくり急げ〉«Plus on se hate, moins on avance. »〈人は急ぐほど、前に進めない〉がある。
(24) sprat〈スプラット鰯〉は鰊の仲間だが、鰯と訳すほうが鯨との対比のうえで落ち着くので、このように訳してある。