リファテールの文体論は構造文体論と呼ばれる(1)。それは文体研究における構造言語学の応用である。構造主義の第一特色はものごとを二元的にとらえる点にある。相対評価である。たとえば,構造言語学は各人の共有することばと各人の実現することばとをきちんと区別する(2)。原因と結果とがはっきりと分けて考えられる。その上で因果関係がさぐられる。構造文体論でもことは同じである。文体の要因と文体の効果とがはっきり区別される(3)。一方で,作者のあたえる文体要因は,当の文学作品のなかにある。他方で,読者の感じる文体効果はさまざまである。言語は時代とともに変化する。そして,それに応じて文体のとらえかたも変わるのである。言語と文体の相関性。構造言語学のやりかたが文体分析にも使えると踏んだリファテールの大義名分はそこにある。
構造言語学の役目は,個々の形式分析からその存在を合理的に説明するような原則をひきだすことで,その言語構造を規定することにある。したがって,その立場は帰納的である(4)同じように言うと,構造文体論の役目は,個々の形式分析から,文学作品が書かれた当初にもっていた文体効果を再現することで文体構造を規定することにある(5)。それは不特定多数
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の読者の感じる文体効果と,作品に内在する文体要因との共通部分をみつけることである。その上で,彼らの反応を制御することである。文体構造とはこのようなものである。ではリファテールにとって文体とは何か(6)。
彼自身のことばによれば,文体とは,「文中のある要素に読者の注意をひかずにはおかない浮きぼり」である(7)。なお,彼の文体論の対象はとくに文学作品の文体であるが,その形式によりいやおうなく人の注意をひく書きものはすべて文学作品と呼ばれている点に注意されたい(8)。この定義には読者の反応を重視するリファテールの基本的な立場がそのまま示されている。文体の存在は読者の知覚によってしか確認されない。印象に個人差はあっても,感じるからにはそこに何らかの刺激があるはずだ。火のないところに煙はたたない。彼が文体分析に導入する最初の基準こそこの読者の反応である。
リファテールの理論のなかでは,読者の反応はふたつの役割をはたす。ひとつは目印としての役目である。彼は文体分析にふたつの段階をもうける。文体要因の発見段階と解釈段階とである。そして,前者の準備段階で利用されるのが目印としての読者の反応なのである。このとき,読者という概念は普通の意味から遠ざかる(9)。それは当の研究者もその一員であるような不特定多数の読者の総和となる。その数は多ければ多いほどよい。目印は多いほどよいのである。ある箇所に読者の反応が集中していれば,そこに文体要因のあることがあきらかになるというわけだ。そのため,具体的な章句にもとづいた反応なら何でも利用される。いや,かき集められると言ったほうがよい。何人かの教養人に作品を読ませて,その反応を集めることもできる。その場合には,もちろん,前もって文体要因のひそんでいそうな箇所を彼らに知らせるのは禁物である。反応の中味自体は賞賛でも非難でもよい。仮にまちがった解釈であってもかまわないのである。また過去になされた作品の注釈や,作品の一節が引用されている辞書・文法書の言及もすべて活用できる。別に文体についての注釈でなくてもよい。ある語の意味の説明でも,誤用の指摘でもよいのである。当の研究者が,この役目をはたすときには,他の目印からの二次的な反応とならないように細心の注意をはらわねばならない。意訳したものを原文かその直訳とくらべることで,文体要因のありかをさぐるというのもひとつの手である。
ただし,目印としての読者の反応の利用にはおのずと制限がある。この時点での内容の無視である。読者の反応は完全に主観的なものである。彼の反応には偏見や好みといった価値判断がつきまとっている。しかし,文体要因の発見段階では,彼らの価値判断を考慮にいれることはできないし,その必要もない。文体要因の発見に不特定多数の反応を利用するのは,とかく主観的なものになりがちな文体研究に,ある程度の客観性をあたえるためでしかない。それに,文体要因の存在を保証するのは,彼らの価値判断自体ではなくて数である。
リファテールの理論のなかで読者の反応がはたす役割はもうひとつある。それは読者の注意力に関係している。そのとき,読者は雑多な反応のよせあつめではなくて当の研究者だけ
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のものになる。彼の推理が結果を左右する。つまり一種の暗号解読者としての読者に研究者がなりきることである。解釈段階での説得力は,こうして,帰納の確かさによって示される。前提となっているのは彼の注意力を最大限に働かせる箇所が,彼自身の主観で選ばれたものではなくて,そこに文体的な刺激のあることが多くの読者によってあきらかな部分だということである。この段階では最大限の読みとりがなされねばならない。
文体をある要素の浮きぼりとしてとらえるとき,それは作者の意図を前提とする。そのとき,作者が文学的な目的で差しむけた信号を,読者が作品から読みとるという関係ができあがる(10)。この作品を媒介とする信号の差しむけと読みとりという二元的な考えかたは,文体分析ではかなり有効である。それによって,これまでの文体批評ではつかみどころのないものであった文体の概念が,真正さと確からしさとともに限定されるからである。一方で,作者の送る信号は,作品のかたちをとることで,無傷のまま保たれる。しかし,他方で,読者が作者と共通の言語規範をもつとはかぎらない。慣用を通して当初の文体要素が単なる言語要素になったり,逆に,当初の言語要素の廃用によって,作者が思いもよらないような箇所が,後世代の読者には文体として感じられたりする(11)。文体要因と文体効果とがはっきり区別されねばならないのはそのためなのである。そこにこそ単なる文体批評ではない,文体論独自の見かたがある。リファテール自身のことばを使えば,文体論の役割は,「特定の文学作品の文体が書かれた時点でもっていた効果を再構成し,それに応じて現代の読者の反応を修正する」ことにあるのだ(12)。そんなわけで,研究者は暗号解読者としての立場にたたされる。
実際の文体分析には,もっと直接的な基準をもうける必要がある。そのいとぐちは言語の規範という従来の文体研究がよりどころとしていた概念にある(13)。文体に対する読者のとらえかたがさまざまなのは,彼が言語のなかで勝手に基準を定めてその語感に頼ろうとするからである。文体をこうした暗黙の標準からはみでた要素として考えている限り,文体研究も印象批評のそしりはまぬがれない。文体論としては各人の頭のなかにしかないような規範ではこまるのである。何とかこの規範を具体的なかたちをもったもののなかに求めることはできまいか。リファテールの目は作品自休にそそがれる。目印としての多数の読者の反応の分布状態から文体要因をなす箇所がわかれば,それ以外の部分は一応言語要素,つまり,作者の言語規範にそくした要素として考えることができよう。そして,それらの要素は個々の文体要素からみれば,大小さまざまな長さの文脈を構成している。そこで,無形の言語規範の代りに文脈を利用するのはどうかということになる。文体を文脈からのずれとして考えると,主観的な語感に頼る必要がなくなる。文体分析に規範としての文脈の観念を積極的に導入したのは経験的に文脈の重要さに気づいたリファテールの功績である。
彼にとって文脈とは「予想できない要素によって破られる型」である(14)。言語規範の代わりに文脈を使うわけだから,この定義はやむを得ない。普通に文脈といえば,ある語句の意味をかぎるのに利用される周囲の文章か,それとの関係を指す。そこには文脈と問題の要素
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との自然な連続性がある。しかし,文体要素と文脈とのあいだに,こうした連続性はまったくない。もしそれがあれば,文体要素は言語要素から区別されない。そこにあるのは対立関係である。だから,文体要素の文脈は型破りな要素の介入によってこわされる言語のパターンだと言ってやる必要がある。注意すべきは,いくらそこに断絶があるといっても,文脈という以上,それらを別々に切りはなして考えることはできないという点である。通常の文脈でも,それがなくなれば,問題の語句は辞書の見出し語と変わらなくなる。文体の文脈では,それはもっと積極的に要素と結びつけられている。むしろ,こう言おう。文体は,文脈とその対比要素との二元体であると。こうして,規範としての文脈の観念は対比原理を生む。それは基本的な文体構造である。
この対比原理は,とりわけ,文体要素がそれ自体表現的なものでなくてもよいことを教えてくれる。これまでの研究者はある箇所に文彩や修辞法の存在をみてとると,即座にそれを文体と同一視したものだった。この姿勢は文体論の立場からは是認されない。文脈がありふれたパターンであれば,破格な要素がそのままめだつ。しかし,文脈が異常なパターンをつくることがある。たとえば,同じような修辞法がならんでいる場合,読者は慣れによってそれをワン・パターンだとみなす傾向にある。そのとき,修辞法の文体効果は帳消しになりやすい。だから,その型を破るためには,そのあとの文体要素はむしろ普通の言語要素であった方がよいのである。対比要素というのは,文脈に対して対照的なものであれば何でもよいのだ。文体の研究者はこのメカニズムを理解せねばなちない。文体は決して印象的な手法の連続ではないし,それは本来の表現的な要素を結果的に文脈にしてしまう。
文体を規範からのすれとみなす考えかたでは解決でさないもうひとつのケース。それは文体要素にも文脈にも,別々にみるかぎり,言語規範にそくした語句しか含まれていないのに対比をなしているものである。つまり,特殊言語の場ちがいな文脈での使用である。古語,新語,借用語,専門用語,文語,口語,俗語,隠語,さまり文句,引用句,ことわさ等々。たとえ,二次的なものであっても,特殊言語は言語要素に属する。皮肉やユーモアやこっけい味といった一連のパロディックな効果を出すのにこうした特殊言語が使われることは多い。実際,リファテールの通時的な文体の探索においてその対象となるのはこの種の特殊言語である(15)。これらの特殊言語は言語と文体のあいだを自由に行き来できる。それらは文脈のなかでしか文体価値をもたないのである。
このように規範からのずれが文体をなすとは限らない。言語要素が,文脈での位置によっては文体要素になる。本来の文体要素が文脈になりさがることもある。文脈は変わりやすい。この性質がすべての文体事象を合理的に説明するのである。これは文脈の本質である。
ところで,文脈は大小さまざまな長さをもつ単位である。そして,筆者は先に文体は文脈と対比要素との二元体であると言った。この言いかたは,問題となっている文脈が,あとの文体要素と対比をなすのに必要最低限の要素であることが前提となっている。対比要素をめ
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だたせる最小の文脈単位である。しかし,現実には文体はこのようなかたちで独立していることはほとんどない。もっと大きな文脈の影響をうけることが多いのである。普通に文脈というとき,それはこの種の文脈を指す。そういう種類の文脈は作品につきものなのである。このままでは同一作品に性質の異なるふたつの文脈があるということにもなりかねない。そこで,リファテールは文脈のこうした二通りのありかたをはっきり機能面から区別しようとする。文体手法の内側にあって文体要素と対比をなす文脈と,文体手法の外側にあってその対比効果を制御する文脈とを分けて考えようとする。前者は小文脈と呼ばれ,後者は大文脈と呼ばれる(16)。それによって先の言いかたをつぎのように改める必要がある。すなわち個々の文体手法は小文脈とその対比要素との二元体である。そして文体はこれらの手法とその効果を強めたり弱めたりする大文脈の存在によってより完全なかたちをとる(17)。
小文脈はそれ自体大文脈から独立している。その時点では大文脈の影響は考慮されない。形式上両者が重なり合うことはない。小文脈は文体手法にいわば溶けこんでおり,手法の一部である。この点で,小文脈は普通の意味の文脈から遠ざかる。先の文脈の定義から判断されるように,リファテールは文体事象を予想性の観念を通して説明しようとする。読者の反応を重視する彼の立場からすれば当たりまえの話である。予想がつくからパターンができる。そのパターンのあとに,何らかの予想のつかない要素がくると,対比が生じる。そのとき,その類型が手法のー部として感じられるためには,それは対比を生むのに最小の長さをもつものである必要がある。小文脈の概念が生きてくるのはそこである。普通の意味の文脈には対比形成に直接かかわっていない要素がどうしても含まれる。それはそれで文体形成に役だっているのだが,文体手法は修辞法のように技法が直接はたらいている要素をすぐにひきだせるものでなければならない。したがって,文体要素をめだたせる機能をもつ小文脈は言語のレベルでそれと緊密に結びついたものでなければなるまい。小文脈はただ一つの言語単位を構成する(18)
こうして,小文脈は大文脈から切りはなして考えられる。だが,文脈を意外な要素によって破られる型としてとらえるとき,小文脈はどのようなパターン化のかたちをとるのだろうか。普通の文脈から分けて考えるとき,唯一の言語単位をなす小文脈では,どのようなパターン認識が行われるというのか。通常の文脈なら,それは同じ要素のくり返しか,似かよった要素のつみかさねによって得られるにちがいない。ところが,小文脈にはこの種のパターン認識を可能にさせるような連続性はない。とすれば,読者は小文脈のどこにパターンを感じるのか。小文脈の要素がそれ自体予想できるものであるためには何が必要だろうか。ここで思いだされるのは文脈以前の問題としての言語規範の概念である。大文脈の存在を無視しても,この読者の頭のなかにある規範を通じてパターン認識を行うことは可能である(19)
小文脈のパターン認識には次の二通りがある。ひとつはこの暗黙の規範と対比要素との比較によって,小文脈をパターンとして見わける場合である。もちろん,文体論の立場からす
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れば,この読者の言語規範は,作品が暗示する作者のそれと共通のものであることが要求される。つまり,いつの時代にも,ありそうもない組みあわせというものは存在する(20)。たとえば,おしゃべりな沈黙とか悲しい喜びとかいった正反対の意昧をもつ二語のつき合わせ,この種の対比は修辞学ではオクシモロンと呼ばれるものである(21)。そのとき,規範は暗黙のものといえども絶対的なものとなる。しかし,そこまで極端でなくても,読者の規範が容認しない組みあわせも数多く存在する(22)。その場合,彼の規範が作品に内在する作者のそれと異なったものであれば,それは読者のひとりよがりな印象にすぎないわけである。何度も言うように,文体論の役目は,彼らの誤った印象を修正することにあるのだ。
小文脈のパターン認識のもうひとつのありかた,それは当の対比要素との比較によってパ夕一ンを見分けるというものである。読者の暗黙の規範は,そこではまったく役にたたないというケースである。たとえば,場ちがいな文体要素とのつき合わせや,小文脈を構成する諸要素と対比をなす諸要素とが,意味か構文上交差的に配置されているようなつき合わせがこれにあたる(23)。いずれにせよ,小文脈のパターン認識は,普通の文脈の場合とちがって,もう一方の極である対比要素との一回きりの比較によってなされるのである。小文脈の場合,最初に読者を印象づけるのは文体要素の方であることに注意しよう。
今度は総合的な文体効果を考えてみよう。文体手法は多くは孤立して存在しているわけではない。雑多な要索から成る普通の意味の文脈が,その効果を制御しにかかると見たはうがよい。極端な場合には他の手法の積みかさね自体がその文脈の役割をはたすこともある。すでに述べたように,当の文体手法からみれば,こうした手法の連続というパターンは,その文体効果を帳消しにしがちである。しかし,バラエティーに富む技法の積みかさねは,それがプラスの方向にはたらけば,文体としての浮きぼりを形づくることができる。この効果はもはや対比にもとづくものではない。そこで,リファテールはそれを集中と呼んで対比と区別する。彼はそれを文体分析の補足的な基準として考える。ただ,作者の文学的な意図という観点からみれば,それがより明白なかたちをとってあらわれるのは対比よりも技法集中のほうであろう(24)。
それでも,文体手法の連続が文脈をなすのはやはり特殊なケースである。もっと一般的な文体効果を想定しなければならない。部分的な読み返しは普通の読書にはつきものである。意味の不明な箇所やおもしろい表現や思いがけない語句があると,読者はそこで立ちどまり,その前後を読みかえす傾向にある。この現象を効果面からみたらどうなるか。再読では,最初にその要素を目にしたときほどの驚きは,確かになくなるだろう。しかし,それはそのまま,文体手法の対比効果の減少を意味するわけではない。注意力の増大を意味するのである。文体がある要素に読者の注意をひかずにはおかない浮きぼりであるとすれば,より完全な文体効果は,大文脈の吟味によってしか得られないように思われる。それには読者の注意ぶかい推理が必要なのである。そして,その注意を最大限に働かせる場が,とりもなおさず大文
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脈である(25)。
リファテールによれば,大文脈とは,「文体手法に先だちその手法の外にある一連の文学的な信号の部分」である(26)。定義はいかめしいが,大文脈は普通にいう文脈とほとんど変わらない。ただ,前後関係ともいえる後者とちがって,前者がカバーするのは文体手法より前の部分だけである。それでも,大文脈を文学的な信号として規定することによって,リファテールはこの概念に重要性を付与しているように思われる。つまり,文体要素を最終的に浮きぼりにするのが大文脈の役割とすれば,それは小文脈以上に大文脈の部分をないに等しいものにしようとする作者の強い意志を前提とするからである。そのとき,大文脈は文体手法と同等の価値をもつ。草稿などの研究を通して,作者の執筆の順序がある程度わかれば,こうした意識的な文脈操作の実態がつかめるだろう(27)。前述のように,同じような文体手法の頻繁な使用は効果の帳消しにつながっている。それを避けるために,手法を含まないような大文脈が利用される。そのとき,大文脈は手法と手法との間隔をあける役目をになうわけである。
普通の文脈にもいえることだが,大文脈は小文脈ほど境界がはっきりしない。文体手法の前で終わるのは定義から確かだが,大文脈はどこから始まるのか。ここで思いだされるのは,文体事象における文脈は,すべて何らかのパターンをかたちづくるという点である。パターンの概念は,それが特に顕在化する大文脈の境界を説明するには便利である。そこから,リファテールのように,パターン認識がなされる箇所から大文脈は始まると考えることもできる。しかし,それはお茶をにごすことになろう。大文脈は,どこまでいっても,小文脈のようには空間的に限定されない。読者の頭のなかにしか境界はないからである。おそらくは,それが小文脈を大文脈から切りはなした最大の埋由であろう。
大文脈の展開のしかたには二通りある。文体手法の前にあるパターンが,そのまま,手法の後でもくり返されるものと,当の手法がくり返されることで,それまでのパターンが変わるものである。一般的なのはもちろん前者のほうである。後者については,すでに述べた通り,手法の積みかさねはパターン化によって大文脈を構成することができる。その場合大文脈とともに新しい対比を可能にするのは手法ではないことに注意しよう。
大文脈の役割についても,それは次のふたつしかない。対比効果の増強か帳消しかである。ただ,文体とは,何度もいうように,浮きぼりである。ある効果の部分的な帳消しも,全体としての文体効果を強めるために,巧みに配慮されたものであり得る。文学作品は仕組まれた有機体なのである。
以上のように,文学作品に潜在する完全な文体効果は,文脈の総合的な吟味によってしか得られない。「しかじかの語には内に秘めた表現力がある」などと言われる。文体をこの種の表現性と同一視してきた研究者の誤解がそこにある。内在的な文体価値という考えかたは,文体論の立場からすれば役にたたない。小文脈ほどではないにしろ,一般に,文脈は特に文学作品のなかでは文体要素と一体のものとして感じられる。実際,それらは作者によって緊
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密に結びつけられている。そうでなければ,作品の芸術性などあり得ない。たとえば,墨絵における余白の重要さを考えられたい。その余白の役割を文脈はになっているわけである。
まとめよう。まず,読者の反応の重視,一方で,それ自体の目印としての不特定多数の読者の活用。文体要因のありかをさぐるためである。客観性をあたえるには,できるだけ多くの情報を集める必要がある。そのため,具体的な章句にもとづいた言及なら何でもよいとされる。それだけに,彼らの価値判断の中味はこの時点では無視される。ここでは,ある箇所に多数の読者の注意が集まっていることだけが問題となる。他方で,作者から送られた信号の受け手としての読者の注意力の駆使。この種の読みとりの姿勢がなければ,文体はつかみどころのないものとなる。文体に対する読者の感じかたは時代とともに変化するからだ。文体論の役目はあくまでも現代の読者の反応を制御することにある。
次に,文脈の概念の利用。従来の規範の概念の代わりである。各人の頭のなかにしかない規範に対して,文脈にはかたちがあり文体要素に直接介入している。しかも,文脈は規範とちがって,そのつど変わりやすい。場ちがいな文脈では,言語要素も文体要素になる。修辞法の使用がそのまま文体をなすとは限らない。そこで,文脈は文体手法のー部としてみなされる。大きくみれば,個々の文体手法もまた文脈のなかでしか考えられない。こうして,文脈は便宜上ふたつに分けられる。手法の内にある文脈は小文脈と呼ばれ,文体要素とともに対比をなす。実際の文体分析では,対比は基本的な指標の役割をはたす。さまざまな技法の積みかさねが文脈の資格で文体要素を浮きぼりにしている場合もあり得る。それをリファテールは集中と呼んで,対比から区別する。集中は補足的な指標となり得る。手法の外にある文脈は大文脈と呼ばれ,手法の出す効果を増強するか帳消しにする。したがって,そこでは文体を最終的にきめるのは大文脈である。文体は対比ではなくて浮きぼりであることに注意しよう。
文体批評の再認識。前述のように,構造主義は,ソシュール以来,万象の二元的解釈を特徴とする。それによって,リファテールの理論の随所に,この種の機能的な二分法がもちこまれていた。言語と文体。文体要因と文体効果。発見段階と解釈段階。目印としての読者と暗号解読者としての読者。信号の差しむけと読みとり。規範と文脈。文脈と文体要素。小文脈と大文脈。対比と集中。浮きぼりと帳消し,等々(28)。これらの二元対立が彼の理論に基盤と説得力とを与えていた。そして同時に,それらは単独ではもち得ないほどの重要性を個々の概念に付与していた。文脈や帳消しなどはその典型である。そもそも,構造文体論の試み自体が,構造言語学というすでに体系化された学問との依存関係のなかでしか存在価値をもたないものであろう。とすれば,この関係を文体論と文体批評との対立関係にもあてはめてみることができる。文体論の役目は,文学作品が書かれた当初にもっていた文体効果を再現することで,現代の読者の反応を修正することにある。また,リファテールは,文体分析の準備段階で,不特定多数の読者の反応を文体要因の発見と確認とに最大限利用する。このよ
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うに言うとき,問題となっている読者の反応とは,ほとんど文体批評の別名である(29)。つまり,彼は主観的な文体批評からのがれるのに,その圧倒的な数の多さを活用している。このことは,逆に言えば,文体論は文体批評なしには成立しないということである。それも,文体批評の数が多ければ多いほど,文体論としての客観性は高くなるわけである。実際に,彼が文体分析の対象として選択するのが,ユゴーやボードレールのようなその研究自体に歴史のある大作家であるというのもうなずける(30)。唯一の文体論と多数の文体批評には結局おたがいの有効性を認め合いながらの二者共存の道しかないように思われる。
対比形式の分類。一文学作品に潜在する完全な文体効果は,文体要因の分布状態と大文脈の吟味によってしかあきらかにならない。これは口で言うと簡単なようだが,実際には大変な作業である。ところで,リファテールは,先に述べたように,個々の文体手法の内にある文脈と,外にある文脈とをはっきり区別している。小文脈の概念は大文脈のそれから独立している。小文脈のパターン認識を手法の内にある要素だけで説明できるという点を考慮されたい。そこで,手法の内部要素のそれ自体の研究を,外部要素も加味した総合的な文体効果の研究から便宜上切り離すことも可能である。文体手法としての対比の研究と,文体としての浮きぼりの研究とをである。後者からみれば,前者はもちろん準備段階である。文体手法を何らかの対比とみなせば,それに最低限必要なのは対比を生むのに最小の長さをもつ二要素のつき合わせである。普通にはめだたせる要素がめだつ要素の文脈の役割をはたし,めだつ要素が作者の強調したい箇所だということになる。ところが,二言語のつき合わせや,一語の内部での語幹と語尾の対比といった小さな言語単位同士の結合では,本来のめだつめだたないの関係を離れて,二要素が一挙にめだってしまう。文脈の概念を重視するあまり,リファテールはこの点を見のがしている。これらの対比では,文体要素とその文脈という彼の区別はむしろ邪魔なのである。しかも,効果面からみれば,対比をなす言語単位は小さければ小さいはど,その印象効果は大きくなる傾向にある(31)。とくに,一定の時空的な間隔をあけてのそのくり返しの印象効果は高い。実際,CMやポスターは,この対比原理を最大限に活かしたものである。そこで,個々の文体手法の研究のなかで,さらに文脈の概念を必要とする対比と,それを必要としない全体的な対比とが区別され得る。対比をなす要素はさまざまである。意味が正反対の二語のつき合わせ,二語を融合させての造語,動詞の活用語尾のねつ造にもとづく造語,きまり文句のもじり,場ちがいな接続詞・前置詞などの使用,形容詞のかってな名詞化や副詞化,その他一般に慣用が認めないような二語のつき合わせや場ちがいな特殊語の挿入,等々(32)。ここでは二通りの見かたが可能である。それらを修辞法とみるか誤用とみるかである。それには作者の意図の有無が関係する。しかし,およそ文学作品と呼ばれるもので修辞面から細かく配慮されていないようなものは存在しない(33)。だから,特にそれが偶然のしわざによる誤用であるということが確認されない限り,対比は意図的なものであると考えるべきである。それに対比が意図的であるかないかは,その効果からもあ
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る程度判断されよう。たとえば,表面的には何の因果関係もないようにみえる二語が,対比によって深いところで緊密につながれていることが判然とするような場合である。そんなわけで,対比は原則として文体手法だとみなすことができる。ただ,ここで注意すべきは,その逆は真実ではないということである。文彩や修辞法の使用が必ずしも対比をなすとは限らない。それらは効果的に使われてこそ対比の役割をはたすのである。このことは命名する喜びがきずきあげた旧修辞学の遺産目録をみれば即座に理解できよう。そこには,実質的にそれ自体対比をなすいくらかの修辞法とともに,名前ばかりいかめしいが,その使用だけでは何の印象効果も生まれないような技法がところ狭しと書きつらねられている(34)。
構造文体論の役目は,氾濫する文体批評を機能面からとらえなおすことにあるばかりでなく,形骸化した旧修辞学の遺産を効果面からとらえなおすことにもあるのではないか。リファテール自身はこの観点には到達していない(35)。しかし,構造言語学をその母体とし,文体批評によって自己を正当化してきた構造文体論であるから,それを旧修辞学との二元対立のなかでとらえることは,文体論の可能性を確かめるにはかなり有効な操作であるように思われる。それに,それは近年における旧修辞学の復興という時代の要求にも合致している。文体論と修辞学との近親性からみて,旧修辞学の遺産の制御という役割をはたさねばならないのは,文学批評でも美学でも芸術学でもなく,文体論なのである(36)。実際の文体分析のなかでは,この二元対立は対比と修辞法というかたちをとる。つまり,個々の文学作品について,いわば「対比が生じる条件に関する文法」をつくることによって,旧修辞学を機能面から再編成してゆく必要があるということだ(37)。
註
(1)cf.Michael RIFFATERRE,Essais de Stylistique Structurale,Flammarion,1971,365pp.ミカエル・リファテール,『文体論序説』(直訳は『構造文体論の試み』),福井芳男他三氏共訳,朝日出版杜,1978,xxii-384pp.なお,邦訳では,原著の二章(「ユゴーの『東方詩集』を読み返して」と「A.マルローの『反・回想録』」)が削除されている。
(2)もちろん,ラングとパロールの対立である。言語と発話のといってもよい。シンタグムとパラダイム,共時と通時などの基本的な二元対立もそれにおとらず構造言語学では重要な区別である。
(3)そこで,文体要因がラングの概念に対応し,文体効果がパロールの概念に対応している。cause(原因,要因)とeffect(結果,効果)とは反意語の関係にある点に注意しよう。
(4)文体研究の立場から,ここで,特に思い出されるのはシュピッツァの方法である。彼のやりかたもまた帰納的である。それは再読につぐ再読を通して,ある具体的な細部から作者の文学的な意図を推理し,そうして生まれた仮定を他の細部の吟味によって検証するというものである。cf.Leo SPITZER, Art du Langage et Linguistique, Dans: Spitzer, Etudes de Style,Gallimard,1970,pp.45-78.その博識と,するどい読みによって,彼の文体分析は印象批評でありながらも,かなりの説得力をもっている。しかしこの場合,帰納の前提となる作品の一形式特徴と,作者のある精神傾向との対応を保証するのは,シュピッツァという一個人のたんなる直観にすぎない。リファテールの理論ではその点がある程度克服されている。彼は後述のよう
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に,文体要因の発見段階で,不特定多数の読者の反応を目印として利用することによって,この種の対応に客観的な根拠を与えようとする。他方で,ロシア・フォルマリスムの流れをくむフランスの形式批評の立場も帰納的である。この種の新批評の旗手は言うまでもなくバルトであるが,彼らのやりかたは,作品の存在をうまく説明するようなある構造のモデルをア・プリオリに選定するという点で,シュピッツァの方法よりもさらに文学よりである。創造批評的だといってもよい。リファテールは『序説』の「フランス・フォルマリスム」という章でバルトやリカルドーの例を上げながらこの点を暗に皮肉っているように思われる。cf.Μ.Riffaterre,op.cit.,pp.261-85.邦訳はpp.221-42.
(5)Le stylisticien essaie de reconstituer l'effet que le style d'un texte avait a l'epoque ou il fut ecrit,et <de corriger> les reactions des lecteurs modernes conformement a cette reconstitution.(Riffaterre,op.cit.,p.37).
(6)文体の概念は一般につかみどころがないと言われる。これまで多くの研究者がその規定を行なっているが,どの定義も文体の一面を照らすものでしかない。そこで参考のために,定評のある『プチ・ロベール』の定義を拙訳とともに引用しておこう。それによれば,文体とは,「表現手段が作品化されたときに見せる一作家の表現の様相であり,手段の選択が古典的な意味では扱う題材や様式上の諸条件に,また近代的な意味では状況に応じた作者の個人的な反応にもとづくようなもの」である。また,言語学ではそれは「話し手か書き手の意図や気質によって決定される表現手段の選択にもとづく発話の様相」である。
(7)Ιl est plus clair et plus economique de dire que le style est la mise en relief qui impose certains elements de la sequence verbale a l'attention du lecteur,de telle maniere que celui-ci ne peut les omettre sans mutiler le texte et ne peut les dechiffrer sans les trouver significatifs et caracteristique (ce qu'il rationalise en y reconnaissant une forme d'art, une personnalite, une intention, etc.).(Μ.Riffaterre,op.cit.,p.31).
最初の定義以下の通りだが,彼はそれをぎこちないと判断したのだ。
Le style est compris comme un soulignement(emphasis)(expressif, affectif ou esthetique) ajoute a l'information transmise par la structure linguistique, sans alteration de sens.(ibid.,p.30)
(8)cf.ibid.,p.30 et p.65.邦訳はpp.30-31とp.64を参照.文学作品もはじめは「文学的意図で個人的に書かれた形式」一般として解釈されていた。しかし,彼はこの仏訳版への書き加えのなかでそれをせますぎると判断した。詩や小説ばかりでなく,歴史書や哲学書のなかにも記念碑的な性格をもつ文学作品が存在し得るからだ。なお,彼にあってはポエムやテクストという語も文学作品の同義語である。
(9)この文体要因の発見段階で,目印として利用される不特定多数の読者の総和をリファテールは「原・読者」archilecteurと呼んでいる。「原・音素」archi-phonemeとの類推である。原音素というのは,言語学で,特定の位置にくると,その区別がなされなくなるような関係にある二音素に共通の弁別的特徴の集まりを意味する。つまり,archiという接頭辞は,ここでは「中和」の意味あいを帯びているように思われる。意訳すれば,原読者というのは融合によって本来の特性を失った読者ということになろう。cf.ibid.,pp.46-7
(10)情報理論の適用である。そこではこの種の信号はメッセージmessageと呼ばれ,それを伝えるために使われる信号の体系はコードcodeとよばれる。そしてメッセージを伝達可能な別のかたちに変える作業はコード化encodageと呼ばれ,コード化されたメッセージを読みとる作業がコード解読decodageと呼ばれる。さらにコード化の操作を行なう者はコード編成者encodeurと呼ばれ,コード解読を行なう者はコード解読者decodeurと呼ばれる。なお,情報理論ではメッセージの意味は問題視されないことに注意しよう。
(11)このように文体には不変の部分と変わる部分とがある。それによっておのずと文体論の視点は同時に共時的で通時的なものになろう。つまり,リファテールはヴァルトブルクが『フランス語の進化と構造』のな
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かで試みた方法を文体論の分野でものにしようとしているように思われる。文体分析の対象選びにもその姿勢が反映される。19世紀のロマン主義や象徴主義や印象主義の作家の作品が好まれるのは,それ自体文体論的に豊かであるからばかりでなく,彼らの作品とそれらにつきまとう諸研究に一世紀有余という歴史があるからでもある。
(12)註(5)を参照。
(13)これまでの文体研究者は,そのほとんどがこの言語規範normeからの偏差ecartとして文体をとらえていた。規範とは,ひとつの言語を共有する集団のなかで等しくよく使われる表現の総体であり,もっとせまい意味では,言語の用法のなかでこれ以外の用法は使うべさでないことを示す体系である。したがって,規範とは(良い)慣用の別名である。そして,偏差とはこうした言語の慣用の踏みはずしを意味する。それは慣用違反つまり誤用である。言語研究者にとっても,文体研究者にとっても,慣用の扱いはやっかいであるそのために言語事象なのか文体事象なのか判断に苦しむことが多いからである。たとえば,修辞的な倒置。それはプルーストの独壇場である。しかし,今ではそれはグレヴィスの『良い慣用』(フランスの規範的な文法書)のなかで是認されている用法である。当初はことごとく独創的なものであったにちがいない。この慣用化にはある語学者の一著作が媒介となったように思われる。ル・ビドワは『現代文語における主語の倒置』のなかで特に『失われた時を求めて』という資料の吟味を軸として1900年から1950年までの倒置の実態調査を試みた。当然のことながら,そこには言語事象と文体事象との混同がかなり見受けられる。彼は言語と文体のあいだをさまよっているように思われる。cf.Robert LE BIDOIS,L'Inversion du sujet dans la prose contemporaine,D′Artrey,1952,xviii-449pp.
(14)M.Riffaterre,op.cit.,p.65.文体文脈contexte stylistique.対比(対照)contraste.
(15)たとえば,リファテールは『序説』の第6章「文語文における成句の機能」のなかで「雷声」voix tonnanteというきまり文句をディドロやユゴーやボードレールの用例分析を通して歴史的に説明している。cf.ibid.,pp,163-5.もちろん,リファテールのとらえかたは先に述べたように同時に通時的で共時的なものであることに注意しよう。紋きり型の研究として次のジィドに関する論文がある点も付記しておこう。cf.M.Riffaterre,Sur un singulier d'A.Gide.Dans: Francais Moderne,vol.23,1955.その他『序説』の第7章「受けつがれた文語形式の文体研究」では文語的な引用句や借用語がこの文体論の立場から分析されている。また新語法に関する似たような研究もある。cf.Μ.Riffaterre,La duree de la valeur stylistique du neologisme,Romanic Review,vol.44,1953.
(16)小文脈microcontexte.大文脈macrocontexte.前者についてはリファテールの前掲書のpp.68-78を,また後者についてはpp.80-88を参照.
(17)大文脈の概念はこうして必然的に「最大限の読みとり」decodage maximalと結びつく。そして最大限の読みとりは単なるメッセージの意味の把握にすぎない最小限の読みとりdecodage minialに対応する。
(18)具体的には小文脈となり得る要素は文以下の単位すなわち語幹か語句か節か文ということになろう。
(19)誤解のないようにいっておくと,いくら小文脈のパターン認識に読者の暗黙の規範が介入するといっても,その認識が得られるのは当の文体要素との比較によってである。大文脈の場合,ある要素のくり返しなどによって,こうしたパターン認識が強くなされるというだけで,また内部要素のみで認識が得られるというだけで,言語規範の代わりに文脈の概念を利用するというリファテールの基本的な姿勢には何の不都合もないのだ。cf.M.Riffaterre,op.cit.,pp.72-3.
(20)ここで筆者は少しいいすぎたかもしれない。「生ける屍」の例もある。しかし,今日まで何世紀ものあいだ潜在的な対比効果を保持してきたものについてはそれらを絶対視してもよいように思われる。
(21)Oxymoron撞着語法・矛盾語法(英仏独語共通).Paradoxisme逆説語法はこのオクシモロンをさらに極
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端化したものだと旧修辞学は教えているが,実際には同義語である。
(22)隠喩の使用はそれが独創的なものである限りこの種の対比を生む。旧修辞学では譬えるものと譬えられるものとが似ても似つかないような隠喩にCatachrese濫喩という名称が与えられていた。語学者の目でみれば,それはあきらかに誤用であろうが,文体論の立場からすれば濫喩はそれ自体効果的な文体手法である。直喩と呼ばれる比喩標識を備えた普通の比較についても同じことがいえるのではないか。濫喩的な直喩の可能性も考えられるわけである。
(23)後者は,修辞学でChiasme交差配語法と呼ばれているものである。キアスムはそれ自体対比を生むとは限らないが,何らかのパロディックな意図が感じられるときには,印象効果満点のものとなる。リファテールは前掲書のなかでヴォルテールの『カンディド』の一節についしてこうした対比に結びついたキアスムの見事な用例分析を行なっている。cf.M.Riffaterre,op.cit.,pp.74-7.
(24)集中convergence.
(25)たとえば,修辞学でDisjonction分離法と呼ばれているものを考えてみよう。分離法とは何らかの異質な要素の挿入によってひとまとまりの要素群をふたつに分離する方法である。普通に話の脱線と呼ばれているものも,自然発生的なものではあるが,その一種である。一般にこうした挿入は長くなればなるほど,読者は注意力を強いられる傾向にある。挿入前の状態をある程度覚えておかねばならないからである。他方で,この挿入によって読者の期待感も高められることになる。このようにして,分離法は効果的に使われたときには文体としての浮きぼりをなすことができる。したがって,読者の側に立てば,それは大文脈の吟味を前提とする文体手法なのである。プルーストの文体特色のひとつだとされている「遅らせ」とはこうした分離法の効果的な使用を指したものにほかならない。
(26)Μ.Riffaterre,op.cit.,p.80.
(27)Dans tous les cas, il est possible de mettre en evidence l'existence de tels contextes <zero> en etudiant les redactions successives des ecrivains:celles-ci permettent souvent de remarquer des suppressions dont le but est de creer un vide au milieu du quel brillera le procede stylistique.(ibid.,p.85).引用文中「ゼロ文脈」というのは文体特牲をまったくもたない目立たない文脈を意味する。他に無標文脈とかゼロレベルとか言われる。この点については,水墨画のたとえが有効である。水墨画では描かれた墨の線以上に余白の部分が重要視される。決定的な役割をもつといっても過言ではない。ここまで極端ではないにしろ,文学作品とくに散文についても同じようなことが言える。ゼロ文脈の配分はそこでは文体特性以上に重要である。構造言語学ではこうした配分された文脈の総和は「分布」distributionと呼ばれる。分布分析は行動主義ひいては構造主義を特徴づける分析方法である。この概念を使って文体要因の分布図ならぬ文脈の分布図を作成するこどが望まれる。
(28)浮きぼりmise en relief.帳消しnivellement.最小限の読みとりと最大限の読みとりもこの種の二元対立である。
(29)もちろん,正確にいえば,原読者には文体批評とは感じられないような不純物も含まれている。しかし,文体批評という言いかた自休かなりあいまいなものであるから,このような断定をおそれる必要はない。
(30)とくに,『序説』の最後の章で,リファテールが行なっているボードレールのソネット『ねこ』の文体分析は圧巻であり,彼の文体理論の総決算である。それは結果的に原読者の一員であるヤコブソンとレヴィ・ストロースの解釈を完全にぬりかえることになった。
(31)パッと目をひくことは読者の注意力とは無関係である。一目でそれとわかる規模のものでなければならない。
(32)リファテールは,コルネイユの『ル・シド』のなかから「暗い明るさ」obscure clarteという用例をひき
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だしている(p.70).一語を融合させた造語は言語学では混成語と呼ばれている。たとえば,もはや言語要素にすぎないが,francais(仏語)とanglais(英語)とを融合させたfranglais(英語からの借用が多すぎる現代フランス語)や,motor(車)とhotel(ホテル)とを混成させたmotel(モーテル)など。活用語尾のねつ造によるものについては,リファテールの前掲書のpp.91-94を参照.成句のもじりについてはpp.177-8を参照.その箇所で,彼は『失われた時を求めて』のなかから,登場人物のひとりであるノルポワによる成句のもじりを多数ひきだしている。文意にそぐわないようにみえる接続詞や前置詞の使用については,それらはリファテールによれば,フランスの象徴主義の文体特性である(p.70-71).シュピッツァによれば,印象主義作家のフィリップがこの文体手法を意識的に使っていた。彼の前掲書,pp.54-7.
(33)プルーストについていえば,その種の意図の存在をうたがう者はまずいないだろう。彼にはリセ(高等中学)のいわゆる修辞学級に入る前にその前教程で使う作家のもろもろの著作をすでに読み終えていたというエピソードまである。この点については,トラアールもこう書いている。「プルーストはコンドルセ中学で学んだ旧修辞学の遺産を憶さず使う。彼は反復法や累積法や撞着語法や対照法や増幅法や直喩・隠喩のたぐいを十分承知の上で用いる」。P.ΤRAHARD, L'Art de Marcel Proust, Dervy,1953,pp.51-2
(34)これらの古典修辞学の遺産目録のうち,19世紀までのいわば半・共時的な原典のなかで最も収録している修辞法の数の多いのはやはりフォンタニエの著作であろう。cf.Pierre FONTANIER,Les Figures du Discours, Flammarion,1968.なお,フォンタニエのこの著作は1821年から1830年にかけて順次刊行された著作を編成したものである。しかし,現代においてこの種の収録を行った著作のなかではラォスベルクのものがもっとも網羅的であろう。cf.Ηeinrich LAUSBERG,Ηandbuch der literarischen Rhetorik, Max Hueber,1960,2 vol.,983pp.実際,この『文語修辞法便覧』は古典修辞学の遺産のほとんど完全な包括である。
(35)この役目は事実上グループμと呼ばれる新修辞学者の一団によって果たされている。彼らはすでに『-般修辞学』の試みを実現している。cf.Rhetorique Generale,Larousse,1970,208pp.『一般修辞学』,佐々木健一・樋口桂子訳,大修館書店,1981,421pp.しかしながら,彼らがそこでよりどころにしている修辞の基礎原理は,対比ではなくて変換である。しかも,彼らの研究の出発点は当の文学作品ではなく古典修辞学の遺産である。
(36)ここで,一般修辞学をうちたてた時点でのグループμの多彩な顔ぶれに注目されたい。J.デュボワ(社会学),F.エデリーヌ(言語学).J.Μ.クリンケンベルク(文学).P.マンゲ(美学).F.ピール(心理学),Η.トリノン(映画学).それは真に学際的な研究である。
(37)Μ.Riffaterre,op.cit,pp.69-70.ここでリファテールはこの種の対比形式の分析・分類という研究の可能性を示唆しているが,同時にそれが彼の文体論の目的ではない点を註のなかでことわっている。作品の文体構造にかかわる形式特牲だけがそこでは間題だというわけである。しかし,いつでもその種の最終的な文体分析が可能になるような中間段階を設定することは無意味ではないように思われる。