1875年4月21日岐阜県大野郡数屋村(現 本巣郡糸貫町数屋)に生まれる。父・光蔵、母・つね。実母の兄・勘助の養子となる。
生まれたときは普通より小さかったが、美しい赤ん坊であった。養父・勘助の職業:村役場の収入役
そろばんが得意、世情に明るい。
実母・つね:頭がよい。信心深い人。
人並みはずれてものおぼえが早く正確で、村人からも「収入役の坊やはとても利口な子だ」と言われていた。
暇さえあれば絵草紙を見せたり、習字をさせたり、昔話を聞かせたりして、めったに村の子たちの仲間にいれないよう、それこそ土間へ素足でおりることもさせないよう、大切に育てられ、将来の夢と期待をかけられていた。
隣に住んでいた野川という医者に、漢字、書道、南画、茶華道を習っていた。
エピソード 四、五歳ごろ実母につれられて時折お寺参りをしたが、聞いてきたお説教をこたつのやぐらの上に座って、そっくりそのまま聞かせたとか、親鸞聖人の御伝鈔などを、大部分暗唱しておとな達をびっくりさせたとか、いろいろな話が残っている。
明治15年4月に一色学校に入学。
役場へ出勤する養父に連れられて毎日登校した。
成績は飛びきり優秀で、1年生から3年生、3年生から5年生というふうに、「とび級」をさせて、6ヵ年の小学校を3ヵ年で終わり、上等科というのに進まされた。
下校時になると必ず役場へ行き、空席の机でコツコツと勉強を続け、養父の帰る時間を待った。
勉強が楽しく、他の子供達の野外遊びなど、いっこう興味を持たなかった。
エピソード 厳格な養父は、成績が2番におとされると、重い机を背負わせて家の外に立たせた。
時々ポカンとした顔つきで、天井ばかり見ているので、伯父が注意のつもりで「今どんな話をしたかいってみよ」というと、要点をはずさずに答えたのでかえって伯父の方が降参した。
岐阜でただひとつの上級学校である、岐阜尋常中学校(現・岐阜高校)に通った。 片道12Kmもあった。
そのころの中学校は、ほとんど16歳か17歳で入学していたが、1人だけ11歳で入学した。そのころの英語の勉強当時は日本語の教科書がほとんどなく原書であった。そのころの数学の勉強
1年級のスペリングが難しく、例えば先生が「ベーカー」(baker)というと、生徒はビー(b)・エー(e)・ベー、ケー(k)・イー(e)・アール(r)・カー、ベーカーといって覚えた。
このような語を毎回数十暗記させられて、その成績によって、綴り方の時間の席順が毎回決められた。「ドードハンターの小代数」、「ウイルソンの幾何学」を使っていた。
代数の説明などは、二年生にはとても読めないので本では問題だけを見るというようなことだった。明治24年3月、1番の成績で岐阜尋常中学校を卒業。
エピソード このころから数学的素養では先生も及ばないだろうともっぱらの評判で、教師の助手として教壇に立つ姿がしばしば見られた。
数学の宿題に悩んだ上級生が助けてもらうこともあって、元岐阜県知事の武藤嘉門もその常連の一人であった。
原書や直訳のようなノートを頼りに、一人コツコツと勉強を続けていた。
熱中のあまり、朝が訪れたことも気付かずにいたこともあった。
「高木の脳ミソは特別製なのか」といううわさを聞いた数学教師が、ある日思い切り難しい問題でテストしたが、難なくこれを解いて、先生を驚かせた。
成績は、代数が100点、漢文97点、英語93点という良いものから、体育77点、化学70点という不成績なものもあったが、平均して86点という良い成績であった。
明治24年9月、京都の第三高等中学校に入学した。
この三高は日本の数ブロックごとに一つづつ置かれた国立高等学校六校のうちの1つで、大学予備校的な存在であった。
入学してまもなく濃尾震災が起こった。
エピソード 濃尾震災の新聞記事を読み、親の安否をひどく気遣った。米原から先は汽車が不通なので、あまり強くもない足で、歩き続けて数屋へ帰ってきた。
家の方は離れが倒壊したが母屋は無事で家族にも死傷者はなかった。
それは良かったが、ここで勘助は独特の個性を大いに発揮し、「お前」には学問という大切なことがあるはずだ。家のことなど心配する必要などない。すぐ京都へ帰れ。」といって叱り、家に入れようとしなかった。母親つねは、せめて今夜だけでも泊まらせたらと取りなしたが、勘助はそのまま追い返してしまった。
後年、数屋で幼なじみの知人に語って、あのとき家に入れてくれなかった父のおかげで、自分は大成できたと語ったそうである。
明治27年、19歳で日本でただ1つしかなかった帝国大学理科大学数学科に入った。
日清戦争が始まって勝利を知らせる号外の鈴に心を躍らせながらも、勉強は少しも弛まなかった。
明治32年7月、卒業式が済むと立派な証書をかかえて、威勢良く家に帰った。
家のものも、親戚のものもみんなが赤飯で祝った。
エピソード 藤沢利喜太郎教授のある試験の時、年上の同級生で後にハガネの研究で、世界的に大きな貢献をし文化勲章も受章した物理学者の本多光太郎が、「俺はノートを4へん読み直したから、どこから、どこから出ても大丈夫だ。」と言うと、博士は微笑しながら「数学って、暗記する学問ですかね。」と言った。
菊池大麓教授が、講義の途中でちょっと席をはずされると、博士はいつの間にか教授の帽子をかぶって教壇に現れ、教授になり代わった形で、講義を続けるまねをして、みんなをどっと笑わせるようなこともあり、なかなかお茶目であった。
明治31年5月、文部省から3ヶ年のドイツ留学を命ぜられた。
当時文部省の派遣する留学生は、1学問にせいぜい1人であった。
8月31日、横浜から出発した。
養父、実母も見送りしたが、養父は博士の帰国直前に亡くなったので、これが最後の別れとなった。
ドイツは世界の数学界の王者の地位にあった。
ベルリン大学の数学陣は、必ずしもドイツ最高というわけではなく、講義の内容も、博士が日本で勉強していたところとたいしてちがいはなかったという。
フロベニウスは、ノートも持たないで力のある講義をした。
1年半の勉強を済ませて、明治33年3月末、ドイツのゲッティンゲンへおもむいた。
ドイツ最高の数学者クラインの講義を興味深く聞いたが、それよりも大きな影響を受けたのはヒルベルト教授であった。ヒルベルトは数学の様々な分野で大きな研究業績を上げた数学者で、19世紀末から1930年頃まで世界の数学者のナンバーワンと言われた人である。この偉大なヒルベルトに直接教えを受けたことと、この人の書いた「整数論報文」を座右の書にしたことは、博士の生涯にわたる大きな精神的刺激であった。
毎週数学教室で行われた談話会は世界各国から集まったより抜きの少壮数学者たちの集まりであったが、博士は欠かさず出席するうちに第1線の創造的な研究の雰囲気を初めて体験した。
帰国してから発表した学位論文も、この活発な雰囲気の中に生まれたと言われる。
明治34年12月4日に帰国した。
郷里の村では、「祝高木貞治君之帰国」と大書したのぼり旗を押したて、小学校の児童を先頭に3Km近くもある村境まで出迎えた。
26歳で、東大助教授として講座を受け持った。
4月には、谷國之助の娘としと結婚した。
新しい生活に入ったが、かねての研究はむしろ順調に進み、明治36年、「ガウス数体の虚数乗法論に関する論文」を発表。これによって「博士」の学位を得た。さらに翌年には教授に昇進した。学位論文を書いたのち、約10年間、1つの論文も発表せず、内に力を養うことに専念して、一見あたかも研究を怠っているように見えた。博士はこのころのことを、晩年のある文章で「アメリカの大学のように、目立った研究業績を上げないと、すぐ退職させる制度であったら、自分は到底、類体論の研究を成し遂げることは出来なかっただろう」と述懐している。
お酒2本をつけた夕食をすますと、そのままぐっすり寝る。そして真夜中になると机に向かって、世界の書籍や論文を手当たり次第研究し、自分の数学の力を深めていった。
しかし、ただそれだけでは満足出来ない何ものかを心深く持っていたらしい。しかも、それは、数学第一と言われたヒルベルトが、かねてから目をつけながら、どうしても解くことが出来なかった、世界の難問題をとらえ、内的な苦しいたたかいをつづけていたようである。
こうして表面はあくまで無風状態に似た10年ではあったが、博士にとっては、貴重な充実と探究の時期であった。
博士の生活に1つの転機を与えたのが、大正3年に始まった、第一次世界大戦である。
ドイツから本が来なくなり、かつてドイツの教授フロベニウスが「自分で考えなさい。」と言ってくれたことを、いやおうなくせねばならなくなったことだ。
しかし、これがかえって大事業に結集する決意を不動のもにしたのである。
ところが、この類体論というのは、非常に難しい理論で、とても普通の者には分からないものだと言われる。
例えばすべての数学を解く場合に、いろいろの定理の証明が必要であるが、中学や高校の数学に出てくる定理の証明は、たいてい1,2ページですむのが普通だが、類体論では1つの定理の証明に、数10ページを要すると言われる。これから考えても、類体論の説明は極めて至難なものである。
ともかく博士は大学の講義をやり、夜は真夜中から大きな研究に取り組んで、1日を2日分に使うという超人的な努力を続けとのである。その影響で、博士の講義は毎日30分ぐらい遅れるのがおきまりとなったが、学生たちは、「30分で結構だ、60分も講義されたらこちらが参る。」と言うほど、充実した講義で、むしろ学生は満足していたという。
こういう大きな研究をする場合、外国の数学者なら、同じ国の数学者の中に1人ぐらいは、その研究を理解し、助けてくれる者がいるのだが、博士の類体論は、とびきり深い、とても難解な理論であったから、誰1人として手伝うことが出来なかった。
数学の証明は、「大体正しい」ではすまされない。博士はすべての定理を神経がすり減るまでも、ただ1人で、繰り返し、繰り返し、その正否を検討するほかになかった。
第一次世界大戦5ヶ年の内、世の中が勝利の夢に浮かれていた戦後でもねばり強く続けられ、大正9年、ついに、130ページに上る、論文を完成した。これをドイツ語にまとめて発表した。
こうして世界数学界の世紀の課題は、博士によって、見事に解決された。しかも尚この研究は同時に、1850年代から約100年間の間、未解決のまま、多くの数学者の頭を悩まし続けてきた難問をも解決した。
それからも研究をひろめて、大正11年には、第2論文を発表して、「タカギ類体論」はここに完成された。
ドイツの数学者たちは、「タカギ類体論」を講演や著書や雑誌などで、どんどん世界の数学界に報告した。
「日本のタカギ」はついに「世界のタカギ」となり、「タカギ類体論」は、「世界の金字塔」として仰がれるようになった。
そしてオスロ大学の名誉博士、数学におけるノーベル賞にあたる、フィールズ賞の審査委員、日本の文化勲章など、内外の栄誉がその一身に集まったのである。
エピソード 初めて独立の家屋を借りて、上京した実母のつねとしばらく水入らずの生活をした。洋行帰りの博士は、ピンとはねたカイゼルひげをのばして、しゃれた上等の洋服に蝶ネクタイといういきなもので、近所の人は、「あそこの家のハイカラさん」と呼んだという。
長男の話によると、「父は相当いらいらしていたようで、何でもないことにもよく腹をたてた。」と言っていた。博士自身も、「自分はノイローゼにかかっていたようだ。」と正直に告白している。
フロベニウス先生の「自分で考えなさい」という教訓や、幼い頃からの「一人勉強」というものは、ここまで鍛錬されてくると、もう単なるそれではなく、どんな難問にも独力で挑みかかって、しかも自分の気のすむまで研究し続け決して退かないという、きわめて高次の学究態度になっていたのだろう。